ここでは、「教材作家とは何か。何ができるか」について考えたいと思います。「教材作家論(KS論)」です。
公世代論(世代を20歳と60歳を境に子世代、私世代、公世代に分けて考える)についても、教材作家の可能性の一つとして試みたいと思います。
次の文章は、物語「教材作家」第2話(2008年4月11日)の中で、登場人物の会話の中で語られる「教材作家論(KS論)」です。
「お前はこんなことも言っていた。 たとえば数学という広大な自然公園がある。そこには多くの山々がある。聳え立つ山の名は、アルキメデス山、ニュートン山、ガウス山など。
その山に挑み成果を挙げた学者の名が付けられている。そしてその弟子の学者たちが、それを整備し、地図を作る。 切り拓く者、それが学者。
俺たち教師のことは、こう言った。学者が作った地図を基に、子供たちを導く。そして子供たちを強くする。導く者、それが教師。
そしてお前は、さらに第三の者を付け加えた。
この自然公園の入り口には、その他にも様々な人々がやって来る。彼らは切り拓く者でも、導く者でもない。彼らは、山々を写真におさめたり、絵を描いたり、歌を詠んだりする。
そして、その山が最も美しく見えるというハイキングコースを知っていたりする。 プロが知らない、自分たちで発見したコースだ。彼らの多くは休日にやって来て、平日は仕事があるから帰って行く。
彼らが持っている写真を、絵を、歌を、そして地図を飾る小屋を作ろう。彼らの作品を、彼らの教材を、発表するための小屋を作ろう。彼らは山の正確な知識を伝えることはできない。
しかし、その山を体験する喜びを伝えることはできる。これは、教育にとって、力強い後方支援となるだろう。
支援する者のことを、「教材作家」と呼ぼう。彼らが集う山小屋を「教材クラブ」と呼ぼう。」
教材作家はこのように、研究者(学者)、教育者(教師)、生活者(教材作家)の対比において考えることができると思います。
研究者(学者)、教育者(教師)の意見は、専門家の意見として権威がありますが、発表には様々な制約があり、自由に行うことは難しいでしょう。
たとえば「富士山」について発表するとき、それは学術的に正統な、正しいとされる範囲内の意見でなければならないでしょう。
ところが、生活者(教材作家)として意見を発表するときには、発表には制約がなく、自由です。
「富士山」についての強い思いや感動を発表したいとき、正確であることを求められる学者や教師としての立場ではなく、白いカンバスに好きな絵を自由に描く画家のように表現できる生活者(教材作家)の立場から発表した方が効果的な場合もあると思われます。たとえば学習参考書を執筆した学者や教師が、教材作家として新しい学習参考書を作るとき、学問に対する感動や新しい発見を自由に表現することによって、それまで無関心だった人の心から興味を引き出す可能性も高くなることでしょう。そのためには、これまで科学的に正しいとされて来た事柄も、思い切って土台から組み直してみることも有効だと思われます。
「真理を得る為には、直観と演繹という精神の基本的な誤りようのない二つの能力を使用すれば足りる・・・(真理を得る為の)仕事の背後では、目に見えぬ、極度に純化された常識(コモンセンス)が働いている」(小林秀雄「常識について」)
生活者としての常識(コモンセンス)は、日本人が古来より大切に育んできた心の原形(やまとごころ)でもあると思います。
その心を自覚して育み、表現しようとする教材作家は、日本人の中に多くいると思われます。
これから「教材作家とは何か」「教材作家の可能性」などについて書いて行きたいと思います。