金曜日の午後はよく晴れていた。
放課後、木造校舎の校庭に現れた慶太は、バイオリンを習っているナオヤの発表会の衣装を着ていた。
黒の上着とズボン、そして黒い革靴を履き、白いワイシャツに黒い蝶ネクタイを着けていた。
慶太が両手で持った木製のトレイの上には、赤い紐で結ばれた黒い漆塗りの箱が、玉手箱のように置かれていた。
木造校舎の東側から正面玄関にかけて植えられた緑の芝生の上には、結婚式で使われる赤くて長い絨毯が敷かれていた。
その真ん中をゆっくりと歩く慶太の両側では、たくさんの子供たちがうれしそうに拍手をしていた。
慶太の前を歩くトモミたち三人の女の子は、子供用の白いドレスに髪飾りを着け、編みかごを持って紙吹雪を撒きながらオメデトウと言った。
「安藤からの教材が届いたようですぜ」
子供たちがうわさしているという報告を受けて、松五郎はすでに三人の部下たちと校舎の隅に待機していた。
ゆっくりと歩いて来る慶太と女の子たちの前に、松五郎とその部下が立ち塞がった。
「慶太君、それは何だい?」
「…」慶太は唇を噛んで、答えようとしない。
「安藤さんからのプレゼントかな?」
「ちがう」
「それは残念だ。では、この松五郎おじさんが、君にプレゼントをあげよう」
松五郎は、上着の胸のポケットから、紙の束のようなものを取り出した。
慶太の後ろに高校生の鉄也が近づくと、慶太から箱を取り上げた。
「あっ!」
慶太は後ろを振り返り、体の大きな鉄也を見上げた。
「返せ!」
鉄也は慶太を見下ろしてニヤリと笑うと、左手で慶太を押し退け、四郎たち二人の中学生を従えて松五郎の前に立った。
松五郎は、今度は鉄也に向い、親しげに話し始めた。
「鉄也君、ここに有名デパートの商品券が10枚ある。一万円分だ。
その箱と交換してもいいと思っている。」
「10枚じゃあ、ゲーム機1個も買えない」
「それなら、20枚だ」松五郎は懐から商品券の束を取り出す。
鉄也はゆっくり首を振る。
「仲間の分が買えない。それではケンカになる」
「ならば…」
松五郎は懐に手を入れ、さらにゆっくりと商品券の束を取り出す。
鉄也と四郎たちは、ゴクリと唾を飲み込む。
鉄也が後ろ手に持つその箱を、背後に忍び寄った小さなタケルが両手で引き抜いた。
「あ!こいつめ!」
タケルは横に立っている上級生に、箱を素早く手渡した。
腕力がありそうなその上級生は、黒い漆塗りの箱を慶太の方へ高く放り投げた。
「慶太!」
空中を飛んで来るその箱を両手で受け取り抱え込むと、慶太は木造校舎の東の方へ緑の芝生の上を全力で走った。
「待て!」
子供たちの間をまっすぐに全速力で駆け抜ける蝶ネクタイ姿の慶太を、鉄也と四郎たちが遠巻きに追う。
校舎の窓の内側では、別の小学生たちの動き出す影が見える。
慶太は東側玄関から木造校舎の中へ駆け込んだ。
「裏だ!校舎の裏側へ回れ!」
松五郎が叫ぶ。
慶太は音楽室前の北東口付近で引き返し、第三集会室に入った。
正面玄関から東へ走って来た松五郎と部下たちは、図書室の突き当りで慶太を見失った。
慶太から箱を受け取った小学生のヒロシが第三集会室を出ると、校舎の西側へ走った。
「あ、あそこだ!」
箱を持つヒロシの姿が廊下の角を右へ曲がった。
「逃がすか!」
松五郎を先頭に、男たちが猛然と追いかける。
学童クラブの教室にいた女の子たちが、廊下側の窓から顔を出して大声で言う。
「こら!廊下を走るな!」
「うるせえ!」
先頭の松五郎は、怒鳴り散らしながら走って行く。
松五郎たちは北西口から外へ出ると、周囲を見渡した。
「どこへ消えやがった?」
その後ろで、黒い箱を持った白いワイシャツ姿の慶太が管理室から飛び出すと、西側玄関に向かって走った。
「いたぞ!」
西側玄関から外へ出た慶太は、東へ走った。
前方からは、東側玄関を出た鉄也と四郎たちが、慶太に向って突進して来た。
慶太はあわてて左へ曲がり、正面玄関へ駆け込んだ。
校舎管理のアルバイトで事務室にいたマサルが、怒った表情で慶太を迎えた。
「いったい何の騒ぎだ!」
慶太は箱をマサルに手渡した。
「お願い!」
「え?」
廊下の西側から松五郎たちが走って来た。
マサルはそれを見ると、箱を抱えて東へ逃げた。
小学生のトオルが箱を受け取った頃には、松五郎たちの包囲網は集会室前の廊下周辺まで狭められていた。
廊下の両側に行き場を失ったトオルは、北側の窓から身を乗り出して外を見た。
すると郵便配達人の帽子を被った小さな男の子が、三輪車を漕ぎながら窓の下を通りかかった。
「郵便屋さん!こっちだ!持って行ってくれ!」
男の子は箱を両手で受け取ると、その体には大きすぎるショルダーバッグに入れて、三輪車を出発させた。
男の子がゆっくりペダルを漕いで行くと、前方の地面に大きなスニーカーが三足並んでいるのを見て、三輪車は止まった。
男の子が郵便配達人の帽子のつばに手をかけて上を見ると、高校生の鉄也と、中学生の四郎たちが腕組みをして男の子を見下ろしている。
男の子は両足を地面に着けると、三輪車の方向を反対に向けて、懸命にペダルを漕いで行った。
今度は大きな革靴が四足並んでいるのを見て、三輪車は止まった。
松五郎が前かがみになって、やさしい表情をつくって男の子に声をかけた。
「郵便屋さん、ありがとう。さあ、その箱を・・・」
松五郎が両手を差し出すと、男の子は恐る恐るその箱を松五郎に渡した。
「いい子だ」
箱の形や重さを確かめながら松五郎が男の子に何か言おうとすると、郵便配達人の帽子を被ったその男の子の、三輪車を懸命に漕いで行く後ろ姿は、すでに遠くの方にあった。
「これが安藤の教材か!」
「健一たちより先に手に入れたぞ」
赤い紐を解いて箱の蓋を開けると、中にはさらにプラスチック製のレバーを覆うようにテープで固定された紙の蓋があり、その表面には文字が書いてあった。
「何だこれは?」
「ひらがなで、 つ よ く ひ く だってさ」
「安藤のヤロウ、子供みたいな字を書きやがる」
男たちは笑い出した。
鉄也と四郎たちも男たちの輪に入ってきた。
「オレたちにも、見せてくれ」
「モシモシ・・・」 松五郎が携帯電話を掛けて、状況を報告しようとしている。
「奥田社長、安藤から送られてきた教材を、こちらで取り押えました。
え?中身?少々お待ちを・・・・おい、中身は何だ?」
部下は四郎に箱を手渡した。
「おい、お前、引いてみろ」
男たちは四郎を取り囲むと、上から箱をのぞき込んだ。
「これを、強く引くのか・・・」
四郎はみんなの注目を浴びながら、緊張してレバーを握り締めた。
「それでは、行きます!」
四郎が思い切ってレバーを引くと、箱の中にあった缶の蓋が三本同時に開き、揺さぶられて膨張した炭酸飲料がけたたましい音を立てて一気に噴き出して、一番近くにいた四郎と松五郎の顔面を直撃した。
そしてその飛沫は、そこにいた全員に降りかかった。
「やったー」
その様子を見ていた子供たちの一団が、飛び跳ねて喜んだ。
「コラー!」
ずぶ濡れの松五郎が両手の拳を固めて怒鳴ると、子供たちは蜘蛛の子を散らすように、きゃあきゃあと言いながら逃げて行った。
「何だと!」 携帯電話から奥田社長の怒鳴り声が聞こえて来た。
「い、いえ、社長にコラーと言ったわけではないんです」
松五郎がおろおろと言い訳をする。
「ふざけるな!」電話は荒々しく切られた。
「お、これは、サイダーだ」
部下の一人が箱から缶を取り出すと、一口飲んだ。
「おい」
松五郎からゲンコツを食らうと、部下はサイダーの缶を地面に落とした。
松五郎たちが引き上げた後、木造校舎周辺には、校庭を駆け回る子供たちのいつもの光景が戻った。
慶太は自分の服に着替えると、ヒロシやナオヤたちと笑いながら学童クラブの教室から出て来た。
真理子と小山そして健一が、正面玄関から入って来た。
真理子と小山は、何やら問題を抱えた様子で話し合っている。
彼らの後ろから、元気のない健一が歩いて来た。
健一を見ると、慶太は思わず身を隠した。
「地元テレビ局に取材で来てもらうことについては、波木会長は反対なんだ」事務室に入りながら小山が言う。
「でも、チカには話してあるわ」
「チカちゃん、来てくれそうかい?」
「話題性があれば来るわよ」
小山は、事務室に戻って来たマサルに声をかけた。
「お疲れさん。マサル君、波木会長を知らないかい?」
「夕方から祝賀会で、駅前の旅館に行くと言われていましたけれど・・・」
「奥田に会うつもりなんだ」小山が真理子に言う。
「いくら会えたとしても、相手は聞く耳を持たないじゃないの。どうしてわからないのかしら・・・」
「話してみなければ、先へは進まないと思います」
健一がそう言うと、真理子は健一の方を向いて言った。
「お父さんはね、いつも、ああなの。周りに心配ばかりかけて」
真理子は健一をにらみつけた。
「男って、どうして身勝手なのかしら?
健一!あなたもそうよ。
自分一人で何でもできるなんて、あなた思ってない?
あなたもお父さんと同じ、わからず屋よ」
「・・・」
健一は肩を落とし、何も言うことができなかった。
「松五郎さん、さあ…どうぞ」
旅館の大広間では、松五郎の両脇から男たちがビールを勧めた。
松五郎は左目に青くて丸いあざをこしらえて宙をにらんでいる。
松五郎は気を取り直すと男たちに言った。
「よし。お前らもつげ!」
男たちはビールを注ぎ始めた。
松五郎はそのうちの一人のコップを取り上げると、「おーい!こいつにはサイダーを持って来てやってくれ!」と大声で言った。
松五郎はその男に皮肉たっぷりに言った。
「お前はサイダーの方が好きなんだろ?」
男は泣きそうな顔で言った。
「松五郎さん。勘弁してくださいよ…」
「えー、それでは、平和台村長、安岡様より、カンパイのご発声をいただきたいと思います。
みなさま、ご起立ください。
では、安岡村長、お願いいたします」
「わが村を代表する社会人野球チーム平和台イーグルスの地区大会優勝を祝しまして、カンパイ!」
「カンパイ!オメデトウ!」
最初のうちは大人しくしていた松五郎たちも、宴会の終盤に差しかかる頃には、酔って周囲に迷惑をかけ始めていた。
ユニホーム姿の監督は、困ったような表情で松五郎たちを見ると、立ち上がって言った。
「みなさん、ご声援ありがとうございました。すみませんが、私はこれで失礼させていただきます」
「監督!もっと飲みましょうよ!監督!」
松五郎と部下たちは、酔って監督の腕を握り、引き止めようとした。
「平和台イーグルス!万歳!」
「監督!」
立ち去ろうとする監督を、酔って追いかける松五郎たちの前に、波木が立ち塞がった。
「おっと…お呼びでないのが来やがったぜ」
にぎやかだったムードが一変し、大広間は沈黙に包まれた。
「では…」村長たちも立ち上がった。「我々もそろそろ失敬させていただきますよ」
村長は波木の横を通りかかると、「波木君、今度ゆっくり話をしようじゃないか」と言った。
波木は目を伏せて村長に会釈すると、村長は波木の肩を軽くたたき帰って行った。
村長の後ろにいた田中校長は、波木と目を合わせると、何も言わず帰って行った。
「ぜひ、我々との話し合いの席に着いていただきたい」波木は奥田に言った。
奥田は座ったまま、松五郎を呼んだ。
「おい。会長さんに酒を注がねえか」
波木は奥田と向かい合って座ると、奥田の言葉を待った。
奥田は何も言わず、酒を飲んでいる。
酔っ払った松五郎は、波木の肩にもたれ掛かるようにして言った。
「我々がスポンサーになっている社会人野球チームが、今年の地区優勝を果たしましてな・・・平和台イーグルス、万歳!」
奥田は波木に体を向けたまま、黙って酒を飲んでいる。
奥田の部下たちが奇声を上げながら、仲間同士でビールを掛け合う。
松五郎もそれに加わってはしゃいでいる。
ビールの飛沫が波木の肩にかかる。
右手でビール瓶を持つ松五郎が転げるように波木の背中にぶつかると、左手で波木の肩を抱き寄せて叫んだ。
「監督!飲んでくださいよ!」
真理子と佐藤、そして小山と健一が旅館に駆け込んで来た。
二階の大広間に入ると、真理子が叫んだ。
「お父さん!」
佐藤たちは波木を周囲から支えて立たせると、大広間を出ようとした。
松五郎が酔った勢いで、一番後ろの健一につかみかかった。
「監督!帰らないでくださいよ!」
「もう、やめてください!」
健一は松五郎に向き直って言った。
「おや・・・お前は誰だ?」松五郎は目を細めて健一の顔をよく見た。
「ケンちゃんじやねえか!」
松五郎は、健一の肩に自分の腕をかけると、うれしそうに笑いながら「まあ、座れ」と言った。
松五郎は座った健一に酒を注いだ。
「さあ、飲め」
「・・・」
「どうした?ケンちゃん。オレの酒が飲めねえか?」
「僕はまだ、未成年ですから」
「それなら、おい!水は飲めるだろう。注いでやる」
「いりません」
「何?オレのサカズキが受け取れないって言うのか?」
松五郎は周囲の部下たちに大声で言った。
「おい!その辺りに水割り用の水がまだ残っているだろう。
全部ここへ持って来い!」
旅館の外では、佐藤が自分の車に波木を乗せようとしている。
真理子は憤然として言った。
「私、もう許せない!」
「チカちゃんを呼ぶかい?」
小山が、待ってましたとばかりに真理子に言う。
「この村で何が起ころうとしているのか、もっと多くの人に知ってもらうべきだわ」
「そう来なくっちゃ」小山は手を叩いた。
「チカちゃんは、昼のワイドショーの担当だ。きっと乗ってくるよ」
「そうね」
「やめておけ」
波木は真理子と小山の計画に反対した。
「・・・おや?健一君はどこへ行った?」
「健一!」真理子が健一を呼んでも、周囲には健一の姿はなかった。
小山は焦った。「やつらに捕まったら大変だ!」
小山と真理子があわてて二階の大広間に戻ると、和服姿の仲居たちがずぶ濡れの健一を広いタオルで拭いてやっていた。
周囲は水浸しで氷が散乱し、仲居たちが傍らにバケツを置いてあわてて拭き取っていた。
奥田や松五郎たちはもういなくなっていた。
「健一!」
頭から白いタオルを被せられた健一は、正座のまま身を硬くして何も言わず、畳の一点をじっと見つめてうなだれていた。
土曜日の午前中、空には雨雲が広がっていた。
奥田の事務所が置かれた屋敷には、工場経営者の丹波が来ていた。
奥田が丹波社長に経過を報告していると、奥田の秘書が入って来た。
「奥田社長、浜崎様からお電話が入っております」
「いないと言え!」
「かしこまりました」
女性秘書は部屋を出て行った。
丹波が椅子に深く座ったまま口を開いた。
「財団の理事は、値下げに応じたかね」
「応じるどころか、土地は売らないと…」
「ハハハ、今さらそんなことができるものか。君の弟は優秀な弁護士だ。契約を解除するなら、損害賠償請求で破産に追い込むと理事に教えてやりたまえ」
「…」
「奥田君、今回の新株発行に際しては、わが社が懇意にしている先生方からも応援をいただいているのだよ」
「…」
丹波は奥田に強く言った。
「わが社の株価が値上りしなかったらどういうことになるか、君はわかっているのか?早く工事を始めるんだ!」
「おにぎりおばちゃん、どうしたの?」
「え?」
「なんだか、元気ないみたい」
「なんでもない。だいじょうぶよ」
「あ、雨」
事務室の窓ガラスに雨粒が当った。
「家に電話しなきゃ」
「ねえ、おばちゃん。この木造校舎、明日こわされてしまうのでしょ?」
「・・・」
「そんなのいやだなあ」
「校舎がこわされるの、いやなのね」
「だって、ここではもう遊べなくなるのでしょ?」
「ここ、気に入ってたし・・・」
「だいじょうぶ。心配しないで。ほかのみんなは、もう歌の練習は終わったの?」
「まだ練習してるみたい」
「そう」
上級生の女の子が事務室に入って来た。
「おばさん、おにぎりできました」
「教えてもらった通りに作りました」
「みんなありがとう。もうすぐ歌の練習も終わるでしょう。さあ行きましょう」
慶太が両手で持つ盆の上には、白い皿におにぎりが二つ乗っている。
廊下を歩いて第二教室の前に来ると、席に座って勉強している健一の後ろ姿が見えた。
慶太は中へ入るのをためらって、隣の学童クラブに行くと、中にいるトモミを呼んだ。
「トモミ、このおにぎりを、健一さんに持って行って」
「わかった」
トモミがおにぎりを運んで行くと、健一はにっこり笑って受け取った。その横顔を、慶太は廊下の陰から見ていた。
子供たちが帰る時刻になると、父母たちが傘を持って木造校舎へ入って来た。
「昨日、会長さんたち、旅館でひどい目にあったんですって・・・」
昨夜の祝賀会での事件は、集まった父母たちの話題にも上り、村に広まりつつあった。
木造校舎の玄関で、家へ帰る子供や父母たちの傘が開きはじめた。
雨の中を黄色いレインコートを着た二人の男子生徒が走って来ると、慶太を探した。
下級生たちの後ろから出て来た慶太を見つけると、二人は走り寄って言った。
「慶太!秘密基地がなくなった!」
慶太は二人の目をじっと見ると、傘も差さず、雨の中を走り出した。
二人の男子生徒もその後を追った。
木造校舎の正面玄関から子供たちがいなくなると、玄関前には傘を差した雅恵が一人立っていた。
高山がみんなの最後に一人で出て来ると、雅恵に気がついて言った。
「降って来たなあ」
雅恵は自分が差している傘の持ち手を高山に向けた。
「傘、持ってないんでしょ?」
「ありがとう」
高山はその傘を自分で持つと、雅恵を入れて一緒に帰って行った。
秘密基地の洞窟があった崖は切り崩されて平らな四角い壁に変り、その前の草むらは伐採されて更地となり、乗用車が数台置けるような整った区画になっていた。
戸棚も、椅子もテーブルも、そして赤い絨毯もそこにはなかった。
昨日までここに秘密基地があったとは思えないほど、その光景は様変わりしていた。
三人は雨に打たれながらじっとそこに立っていた。
慶太は、平らになった足元の泥と石を指先で除けると、そこにあった洗濯バサミの青い破片を指でつまんだ。
雨に濡れたプラスチックのその破片には、小さな文字で"トモミ"と書いてあった。
慶太はずぶ濡れの体で木造校舎に戻ると、健一の席までやって来た。
「健一さん。秘密基地、こわされてた。もう、無くなってた」
健一は驚いた表情で慶太を見つめた。
「そうか…。残念だね」
「健一さん、ゲンさんたちに折り紙のこと話したのは、オレなんだ。知らなかったんだ。工場の人たちだってことを…」
「いいんだよ」健一はニッコリ笑って言った。
「誰も気にしてなんかいやしないよ…話してくれてありがとう」
「ごめんなさい」
慶太は雨と涙に濡れた顔で健一にあやまった。
平和台村役場では、早川が工場の設計図面を広げて、いらいらしながら見ていた。
そして横の椅子に座っている同僚に向って大声で言った。
「どうしてこんなひどい設計図を村は承認したんだ?君は建築の専門家だろ?」
「オレの口からは言えないね。村の重要機密だ」
木造校舎の第二教室では、明日の教材講義のための勉強会が開かれていた。
「健一!」タケシが教室に入って来た。
「安藤さんからの手紙だ」
健一は、教材作家たちと一緒に安藤からの手紙を読んだ。
「三乗根の作図法を知りたければ、三乗の作図法を見つけよということか…」内田が言う。
最後の勉強会で、教材作家たちはそれぞれの意見を出し合った。
その教室に、平和台村役場の早川が青ざめた表情で入って来た。
早川が健一に言う。
「健一君、この工事を止めてくれ。村は大変なことになってしまう」
夕方、健一はタケシの家の一室で、安藤から送られてきた手紙を読み返していた。
手紙にはこう記されていた。
「…私が健一君に送るつもりだった特殊な定規による作図法の資料は、すでに皆さんで確認が済んでいるということを内田さんから電話で聞きました。
それは、次の2冊の本に書いてある作図法です。
○角の三等分(矢野健太郎)
○想像力で解く数学(ピーター・M・ビギンズ)
完成された作図法について、これ以上のことを私は健一君に伝えることは残念ながらできません。
当日の直前まで、私も健一君や教材作家の皆さんと一緒に考えて行こうと思います。
そこで、これから私の考え方について書こうと思います。
2乗根(平方根)の作図ができれば、
2乗の作図法をその中に見つけることができます。
2乗根(平方根)の作図は、2乗の作図の手順を逆にたどるものと考えるからです。
だから、3乗の作図ができれば、3乗根の作図法もその中に見つかるのではないかと思います。
しかしこの方法は、正統な数学的作図法にはないでしょう。
それは3乗を作図するための技術的な方法ですから、三乗技法(さんじょうぎほう)とでも名付けられるような方法であると思います。
私は、学校で普通に使われる定規とコンパスを使った三乗技法について考えています。
残された時間はわずかですが、一緒に考えましょう。
私が思い付いたら、すぐに電話で連絡します。
最後まで問い掛けをあきらめないでください。
きっと最終の問い掛けの中に、答えはあると思います」
「健一、美奈子さんが来たぞ」 タケシがドアの外から健一を呼んだ。
健一は、安藤からの手紙を机の上に置くと、家の階段を二階から降りて来た。
玄関ではタケシの母親が「どうぞ、お上がりください」と勧めているが、美奈子は濡れたレインコートを手に持ったまま、「すぐ帰りますので」と頭を下げている。
「健一」
美奈子の呼びかけに健一は微笑みかけるが、すぐに泣き出しそうな表情に変る。
夜もろくに眠れない健一は衰弱し、うつろな目の下には隈があった。
美奈子は健一をじっと見て言った。
「明日の朝、あなたを迎えに来るから。今夜は真理子さんの家に泊めてもらうことにしたの」
真理子という名前に反応したかのように、健一は目を見開いた。
美奈子はタケシの母の方を向いて「よろしくお願いします」と頭を下げた。
そして健一に背を向けたまま、雨の中を帰って行った。
平和台村での最後の夜に、健一は安藤からの手紙を何度も読み返し、速見の教材講義資料や、内田たちが集めてくれた参考資料を読み直した。
そして静かな雨の音を聞きながら眠った。
<第21話 終>