<第20話> 星座鑑賞会

水曜日の朝は前の日より寒く、健一は重ね着をして練習に参加した。
着膨れ姿の健一を見ると、真理子は驚いて言った。
「あなた、何枚着てるの?」
「一、二、三、・・・五枚です」
「寒いの?」
「はい」
「走っていらっしゃい」
「は・・・はい」
健一はそのまま走り出した。

「ちょっと待って!」
真理子はうんざりしたような表情で言った。
「そんな格好で走るつもりなの?」

健一は上着を脱ぎ、白いTシャツ一枚になって校庭を一周して来た。
「あと九周!」
健一は三周し終えたところで、足が絡まったようによろめいて、真理子の目の前で倒れ込んだ。
「も、もうだめです」
真理子は健一に近づくと、腕組みをしたまましゃがんで言った。
「君、日頃あまり走っていないでしょう?」
健一は荒く息をしながら、言葉が出なかった。
真理子は立ち上がると、ニッコリ微笑んで言った。
「カラダ、あたたまった?」
「は、はい」
「その調子でガンバッテね」

この日の午前中、浜崎が知っているメーカーの担当者が、装置の説明のために木造校舎に来ていた。
波木は浜崎たちと、午後の説明会について、第一教室で打ち合わせをしていた。

第二教室の方では、昼頃から内田と山中、そして小山が立方体倍積問題に関する資料を持って来た。
健一は白いTシャツ一枚だけで何やら懸命に書いている。
内田はその姿を見ると、驚いて言った。
「健一君、そんな格好で寒くないのか?」
「だいじょうぶです」

小山が言う。
「健一君、今夜は高山先生主催の星座鑑賞会があるのは聞いているかな?」
「はい。平和台牧場まで、パイ・ウォーキングで往復するのでしょ?」
「そうそう。健一君も子供たちを引率して一緒に行ってくれないかな」
「わかりました」

「あの、皆さん行政派遣で来られたのですか?」健一が訊ねる。
「小山さんは学童クラブへの行政派遣だよ」山中が言った。
「内田さんと僕は昨日が行政派遣の日だったけれど、今日は休暇を取ったんだ」
小山は「子供たちが集まって来たら僕は宿題を見てやらなければいけないけれど、それまでこちらに参加させてもらうよ」と言った。

内田が健一に訊ねた。
「学校の図書室へは行ってみたかい?」
「はい。今朝は田中校長先生にお願いして、平和台小学校の図書室からも本を借りて来ました。小学生用の本にも、有名な先生の本が沢山あったのには驚きました」
「基本重視だからね。僕も家にあった本を三冊持ってきた。自由に使ってくれよ」
「ありがとうございます」

慶太とその友達が教室に入って来た。「ここで宿題をやってもいいですか?」
内田が手招きして言う。「三人とも入って来いよ」
小山は立ち上がると「こちらの席でやろう」と子供たちを座らせた。

山中が言う。
「分科会の後、いろいろ考えてねえ。この問題は定規とコンパスという制限付きだけど、教材作家の答えとしては、もっと自由に考えられるような気がするんだ。」

「自由に考えられるというのは?」健一が訊ねる。

「黒板用の定規とコンパスを使えとは言っているけれど、黒板を使えともチョークを使えとも言っていない。
安藤さんのように、広い紙を使って、紙の角度を変えながら作図してもいい。
紙が使えるなら、その紙を折り曲げてもいい」

「あ、折り紙ですね」
「そうだよ。作図する模造紙そのものに、まず教材性を見出す。次にその教材の新しい使用法を考える。つまり書くだけでなく、折るのさ。
僕が持って来たこの阿部恒氏の"すごいぞ折り紙"という本には、折り紙を使った2の3乗根の作図法が載っているよ。模造紙でも千代紙でも、同じように折ることができる紙だからね」

「しかし」内田が言う。「折り紙を数学に応用することについては本が沢山出ているし、折り紙自体が一つの教材とみなされないかなあ。教材性を見出す前に、教材としてすでに広く認知されているものであれば使用できない。今回使用できる教材は、学校で一般的に使われているコンパスと定規だけなのだから」

「もちろんそういう反論は予想されるけれど、こちらは工場側のその反論を認めない立場を取ればいい。
"これは折り紙ではなく、模造紙であり、黒板の代用品だ" と言ってやるのさ。黒板の代わりだけど、回転させたり、裏返したりするのは自由だし、折り曲げることに制限があるのでもない。
コンパスを使い、模造紙を折り曲げて計り、定規で線を引いて作図を完了すればいいだろう?」

横で聞いていた小山が心配そうに言った。
「工場側が怒らないかなあ」

「当日怒り出したってもう遅いさ。こちらはあくまでも、模造紙に関する教材性の発見だと主張して譲らないのだ。
すると、彼らは工事を着工できない。裁判でも何でもやってみるがいいさ。大歓迎だ。長期戦になれば平和台村の人たちの話題にも上る。そうすればこちらが勝つ見込みが高くなる」

「なるほど」小山はうなずいた。
内田が言う。「折り紙で行けるかもしれない」


慶太は宿題の手を休め、小山に言って席を離れると、校舎から外に出て、校庭で遊んでいるトモミを探した。
「トモミ!」
トモミとその友達の三人が、慶太のもとへ走って来た。
「何?お兄ちゃん」
「折り紙を貸してくれ。箱ごと持って来てくれ」

トモミの友達の女の子が言う。
「でもあれは、トモミちゃんの宝物なのよ。箱だってきれいな千代紙が貼ってあるし…」
「な、トモミ、持って来てくれるよな?」
「でも…」

「この校舎がこわされないためだ。校舎がなくなったら、この遊び場もみんななくなってしまうんだぞ」
「わかった。家に行って取って来る」
トモミと友達は走って行った。


教材作家たちが集まっていることを聞きつけて、浪人生のマサルが木造校舎に顔を出し、新たに考案した教材を披露した。
「・・・どうです?これで教材作家の認定証はもらえるでしょうか。みなさん推薦人になってもらえませんか?」

山中が首を傾げながら言う。
「・・・君はこの教材の実用性を強調するけれども、そのことに疑問を抱く人も少なくないのではないかなあ」
「問題ありません。実際に僕は家で使っていますし・・・」
「使っているのか・・・」

内田が重い沈黙を避けるように口を開いた。
「マサル君のような人間が大学に行って研究すれば、面白いものができるのではないかなあ」
「僕は、試験で書くほうはニガテなんで・・・。この調子じゃ、来年もまた浪人生かなあ・・・」

山中がマサルをいたわるように言う。
「特待生という制度は、本来君のような人間のためにあるのだと思うよ・・・うん・・・僕の個人的な意見だけどな」
「いやー、それほどでも・・・」マサルは照れたように頭をかいた。

「じゃあ、早速見せてくれよ」小山が言った。
「君が考案した、てこの原理を説明するための教材を使って、ジュースの缶を三本同時に開けて見せてくれよ」

「それでは皆さん、行きますよ。てこの原理で、三本同時に缶の蓋を開けます」
マサルは、並んでいる三本の缶に仕掛けられた教材のレバーを握った。健一や宿題をやっている子供たちも、マサルの手を見つめて息をのんだ。
「1・・・2・・・3!」
三本同時に缶の蓋が開くと、中で膨張した炭酸の泡と液体が、けたたましい音を立てて一気に噴き出し、マサルの顔面を直撃した。そしてその飛沫は、そこにいた全員に降りかかった。
「何だ、これは・・・」
教材作家たちは、自分の髪や肩についた飛沫を手で払いながら苦笑いをした。
「しょうがないなあ・・・」

その後ろで、子供たちは笑い転げていた。
「すみません!さっき走って来たもので・・・これ、炭酸が入っているのを忘れていました」


正門の近くで、慶太はトモミたちが持って来た折り紙の箱を受け取った。
トモミたちに感謝して慶太が木造校舎に戻って来ると、三人の男たちが現れた。
慶太はその三人の中で、教材クラブの会員であるゲンの顔だけ知っていた。

「慶太君、健一君は校舎の中で勉強中かい?」
「そうです」
ゲンの横でニヤニヤ笑っていた男が言う。「慶太君、デロスのバカはどうしてる?」
慶太はそれに答えず、箱を抱えて校舎の正面玄関に入ろうとする。
その男はさらに言った。
「あのバカに伝えてくれ。何も頭に浮かばないのなら、早くあきらめて東京に帰った方がいいぞってな。あいつの頭の中は空っぽだろ?」
「空っぽなんかじゃない」慶太は振り返って言った。

ゲンが理解を示すような表情を浮かべて言った。
「僕は、健一君は頭のいい男だと思っている。その言い方はひどすぎるのではないか?」
「何を言うか。あいつは何も頭に浮かばない。あいつの顔に書いてある。お手上げだ、解決方法はどこにもないってな」
「いや、解決方法は健一君の頭の中にきっとあるさ」
「いや、ないと思うね」
「あるさ」
「いや、ないね」

男たちが言い争っていると、慶太が「ある」と言った。
男は嘲笑うように「その証拠があるのか?」と聞いた。

慶太は千代紙が丁寧に貼られた箱を開けた。
男たちは中を覗き込んで驚いた表情を浮かべた。
「折り紙だ」
「何だ?これは」

「折り紙で2の3乗根を作るんだ」慶太は力を込めて言った。
男は親しげに笑いながら慶太に言った。
「わかった、わかった。慶太君にはかなわないなあ。
彼の頭の中は空っぽだなどと言ったりして悪かった。謝るよ」

ゲンが言う。「でもその折り紙の案はどうだろう。もう完成したのかい?」
「いや、まだこれから…」
「日曜日の発表が楽しみだ。それじゃあな」
男はそう言うと、箱を持った慶太の肩を軽く叩いた。
三人の男たちは帰って行った。

慶太が持って来た折り紙の箱を、健一たちは喜んで受け取った。
山中が言う。「よし、みんなで明日までに折り方をマスターしよう」


内田と山中が帰った後、健一は小山を手伝って、校庭で学童クラブの子供たちの遊び相手をした。

木造校舎への坂道を、真理子は手編みのセーターを入れた四角い紙袋を持って上って来た。すると校庭の横の崖の下に、十人位の子供たちが集まって何やら騒いでいるのが見えた。
真理子がそばに駆け寄ると、2メートル位の高さの崖の上に、白いTシャツを着た健一がうずくまっていた。
健一を心配そうに見上げている一人の女の子に真理子は訊ねた。

「どうしたの?」
「あのね、私たちが遊んでいたボールが、あそこの崖に引っかかったの。それで健一兄ちゃんに取ってもらったんだけど、お兄ちゃん降りられなくなったの」

「健一さん!」慶太が下から叫ぶ。「いま小山さんを呼びに行ってるから、そこを動かないでよ!」
健一は崖の上で膝を抱えてふるえている。その目には恐怖が浮かんでいる。

真理子は怒ったように健一に呼びかけた。
「跳ぶのよ!健一!さあ、跳びなさい!」
健一は驚いたように真理子の顔を見た。そしてそのまま下を凝視すると、思い切って飛び降りた。

「ああ…」と子供たちは叫ぶと、足首を軽くひねって尻餅をついた健一の周囲に駆け寄った。

小山が走って来る。
「だいじょうぶか健一君!」
健一は地面に座ったまま、恥ずかしそうに「だいじょうぶです。お騒がせしちゃって」と言って笑った。


小山の肩を借りて、片足を引きずりながら木造校舎の事務室まで歩いて来ると、健一は椅子に腰を降ろした。
慶太は救急箱を持って来た。
健一の足首に湿布を付けながら、慶太は小声で言った。
「健一さん、高い所から飛び降りるなんて無茶なことしちゃだめだよ。
いくら相手が先生でも、"できないことはできません"って、はっきり言った方がいいよ」
健一は「それもそうだね」と言って顔を赤らめた。


小山と子供たちが隣の学童クラブの教室に行ってしまうと、健一は真理子に折り紙を使ったデロスの問題の解法について説明した。
「これで2の3乗根を作図できる見込みが立ちました」
健一はうれしそうに真理子に言った。

「そう、よかったわね。・・・ところであなた、よくできていたわよ」
「え?」
「トイレ掃除。明日もよろしくね」
「あ、あの・・・」

真理子は、机の上に置いていた四角い紙袋を持った。
「あなた、今夜はみんなと牧場まで行くのでしょ?」
「はい」
「そんな格好じゃ寒いでしょ。これ、着て行ったら?」

「うわー、セーターだ」
「着てみてよ」
健一は、ためらいながらも喜んでセーターを着た。
「なかなか似合うじゃない」

真理子の笑顔が少し曇った。
「それ、よかったら、あなたにあげるわ」
「え?」

健一は自分が着たセーターをじっと見て、それから真理子に何かを言おうとした。
「あの・・・」
真理子は窓の外を見ていた。
健一は、その淋しそうな真里子の横顔を見たまま、声をかけることができなかった。

窓の外へ視線を向けたまま、真理子は言った。
「あなた、明日、東京へ帰りなさい」
「ええ?」

真理子は健一を振り向くと、強い口調で言った。
「私、そのセーター、もう見たくないの」
「で、でも・・・」
「二度とここへは来ないで!」

真理子は健一の言葉を待たず、帰って行った。


三時過ぎになっても、奥田たちは現れず、連絡も取れなかった。
「明日また、ご説明に参ります」とメーカーの担当者が言った。
「待っていただいたのに、申し訳ありません」波木は担当者と浜崎に頭を下げた。
説明会は、翌日に延期となった。


夜の七時に木造校舎前に集合した健一たちは、小中学生を引率してパイ・ウォーキングで牧場まで歩いた。
牧場に着くと、満天の星空の下で星座鑑賞会がはじまった。

高山が健一に赤いセロハンと輪ゴムを手渡して言った。
「健一君、懐中電灯にこの赤いセロハンを付けてくれよ。星を見ている人が目を傷めるからね」
「わかりました」

子供たちが星空を見上げ、星を指差して口々に言う。
「あれが冬の大三角。おおいぬ座のシリウス。こいぬ座のプロキオン。それからオリオン座のベテルギウス」
「ベテルギウスって、地球を単三電池の底の丸い部分の大きさに例えたとき、ドーム球場より大きいんだって」
「あんなに小さく見えるのに・・・」

双眼鏡を持っている男の子の周囲に集まった子供たちが、星空を見上げて話をしている。
「双眼鏡で見ると、もっとたくさんの星が見えるよ」
「私にも見せて」そばにいた女の子が双眼鏡を両手で受け取った。
「あの星の粒が集まっているのが、おうし座のプレアデス星団」
「え?どこ?」
「ほら、あそこ」
「プレアデス星団は、すばるともいうよ」他の子供が言う。
「とってもきれい」双眼鏡をのぞいていた女の子が言った。


健一が気落ちした様子で一人立っているのを見て、小山が話しかけた。
「健一君、どうかしたのかい?」
「真理子さんに、東京に帰るように言われたんです。もうここへは来るなって」
「え?」
「僕は皆さんに書いてもらった原稿を読むだけだから、日曜日の講師は僕じゃなくてもいいのでしょうけれど…」

「また来ればいいじゃないか」 横で聞いていたゲンが言った。
「気分を変えれば、何か名案が浮かぶかもしれないよ」
「そうですね」健一は力なく笑った。


高山が子供たちに、日食について説明した。
「太陽の位置にちょうど蓋をするように月が重なると、日食が起きて昼間でも空には星の光が見え始める」
「太陽と月の大きさは同じなの?」
「実際は太陽の方がずっと大きいけれど、地球からの距離が違うので同じ大きさに見えるんだ。
地球の大きさを単三電池の丸い部分ほどの大きさに例えると、太陽までの距離は150メートルだけど、月までの距離は38センチだからね。

月の影が地球に当たるのを日食というけれど、地球の影が月に当たるのを月食というね。
地球の影が満月に蓋をするように重なると、月食が起きて姿が消え、数分間でふたたび満月に戻る」

「地球は月より大きいの?」
「大きいよ。地球の直径は、月の直径の3.6倍あるよ。月食の時には、地球の影が、月の表面に映し出される。その影を見て、地球が丸いこともわかるんだ。もし地球の影より、月の表面が大きかったら、月食の時に夜空には大きなリングが見えることになるだろう。リングの中の丸い影が、満月に当たった地球の影というわけさ。でも実際の月食では、月は決してリングにはならない。月が地球の影に完全に隠れてしまい、それから数分間は月は全く見えて来ない。これは、月が地球より小さいからなんだ。
日食の時は反対で、青い地球の表面に丸い月の影が映る。その影が当たった地域だけ日食が見られるんだ」

「日食はいつ見られるの?」
「日本では、2009年の7月に南西諸島などで見られる。そして2035年の9月には、北陸から関東地方にかけて大規模な日食が見られるよ。楽しみだね」
「日食になると、夜になるの?」
「数分間だけ暗くなる。空には惑星などの明るい星が見えて来る。でもしばらくすると元の昼間に戻るよ」

子供たちは一緒に聞いている雅恵に話しかけた。
「2035年って、雅恵先生は何歳?」
「さあ、いくつかしら?」

「もう、おばあちゃんだ」男の子がからかう。
「そんなはずないでしょ!」

「ねえ、先生。いつ結婚するの?」
「いつかしらねえ・・・さあそんなことより、せっかくだから歌の練習をしましょう」


雅恵は子供たちを集めると、星座のうたの練習をはじめた。

「りゅうこつ オリオン 冬の空
おうし ふたご おおいぬ こいぬ・・・」


星座鑑賞会も終わり、懐中電灯を持った健一や小山たちを先頭に、子供たちは牧場の出口へ向って歩き始めた。

星空を見上げてにぎやかに歩く子供たちの後ろから、少し離れて高山と雅恵が続いた。
「雅恵さん」
「え?」
「僕と、結婚してほしい」
「言うと思った」雅恵はニッコリ微笑んだ。
「でも、しばらくはムリよ。私にはまだやりたいことがあるの」

「待ってる・・・待っていてもいいかな」
「約束はできないわ。あなただってそうでしょ?これからはめったに会えなくなるし」
「会えなくたって、遠く離れたってかまうものか。僕は待ってる」



木曜日の朝、健一は自分の荷物をリュックに詰めて、平和台駅まで一人歩いて来た。
駅舎に入ろうとすると、小山がスクーターに乗ってやって来た。

「健一君、やっぱり帰るのかい?」
「ええ」
「あさって、また来てくれるのだろう?」
「わかりません」健一は元気がなかった。「真理子さんに電話で相談してみます」

小山は笑って言った。
「慶太には、君が帰ることを話したのかい?」
「いいえ」
「きっとがっかりするぞ。慶太は健一君のことを気に入っていたから」
「そうですか・・・慶太によろしく伝えてください」
「わかった。土曜日にまた会おう。みんな待ってるからね」

小山は健一に手を振ると、駅から離れた。駅舎の横の木陰には、松五郎と二人の男が立っていた。
そのままスクーターを走らせて途中の交差点で信号待ちをしていると、ショベルカーを乗せた大型トラックが二台現れ、木造校舎の方へ走り去った。
「しまった!」
小山はあわててスクーターをUターンさせると、平和台駅まで急いだ。

健一はホームに立って、近づく列車を見ていた。
小山は駅員に頼み込んで改札を駆け抜けると、健一に向って叫んだ。
「健一君!帰っちゃだめだ!」
健一は小山に気がついた。


後部座席に健一を乗せた小山のスクーターは、木造校舎へ続く坂道を上って中間地点の平地まで来ると、ゆっくりと停車した。
正面の坂道の手前には、通行止めの標識が置かれて道路は封鎖され、木造校舎へ行くことはできなくなっていた。
左側の駐車場には、ショベルカーを乗せた二台の大型トラックが止まっていた。
トラックの周辺で待機している男たちは、ツバ付きの丸いヘルメットを被りスクーターの後部座席に座っている健一を見て、驚いた表情を浮かべた。
健一の姿を確認すると、男たちは道路の封鎖を解除した。
小山と健一が木造校舎の方へ上って行くと、二台の大型トラックは帰って行った。



「健一君が東京に帰ることを知っていたのは、波木会長と僕とタケシと、あとは・・・ゲンさんだ。ゲンさんは牧場で健一君が話しているのを直接聞いているんだ。
ゲンさんが工場側に、健一君が帰ることを伝えたのではないかな?」

「まさか」山中が笑いながら言った。
「工場側との話し合いで、使える教材は定規とコンパスという制限がついたけれども、その使い方に制限がなくなったのは、ゲンさんが工場側に対して意見を言ってくれたおかげだ。
使い方の制限が生きていると、数学者の厳しい条件と同じになり、解答は不可能になってしまうから」

「いや、そうじゃない」小山が言った。
「解答が不可能になると、工場側にとっても不利だよ。契約自体が無効になってしまうだろう?
立ち退く約束など、はじめからなかったことになってしまう。
それにしても、健一君が帰ったら解答放棄だとは、言いがかりもはなはだしい」

佐藤が言う。「まあ、とにかく健一君が村に残ってくれてよかった。
健一君が帰ってしまったら、解答をあきらめたとみなされて、工事が始まってしまうところだった。今頃はこの校舎もなくなっていただろう」


健一が第二教室からノートを持って出て来ると、真理子が廊下を歩いて来た。
健一はその場に立ちすくんでしまった。
「あ、あの・・・今朝・・・東京に帰るつもりだったのですけれど・・・」
「なぜ?」
「え?」

真理子は健一の目をじっと見て言った。
「あなた、今日、掃除していないでしょ?」
「あ、・・・はい」
「今からでもいいから、やっといて」
「わ、わかりました」

真理子は廊下を戻りかけた。
「それから」真理子は振り返って言った。
「今朝はどうして練習に来なかったの?」
「・・・」

真理子はニッコリ微笑んだ。
「明日はちゃんといらっしゃい」
「はい」健一は明るく返事をした。


正午から奥田たちの到着を待っていた波木は、午後四時を過ぎたところで説明会の中止を決めた。
浜崎たちにお詫びを言うと、集まっていた人々は帰り仕度を始めた。

波木は田中校長に言った。
「あの奥田という男を早く交渉の席に付けさせなければ、またどんな強行手段で来るかわからない」
「連絡も取れないのだな?」

「そうだ。事務所に行っても不在だと言われる。いったいどうやったら彼と会えるのだろう」
田中校長は言った。
「彼の会社は、社会人野球大会で地区優勝を果たした平和台イーグルスのスポンサー企業でもある。明日の夕方6時から駅前の旅館で祝賀会がある。選手に教え子がいるから俺も招待されている。村長も来る」

「その席に、彼が来るのだな?」
「恐らくな。しかし平和台村は工場建設を承認済みだから、この件について間に入ることはできない」
「わかっている。村長にも、お前にも、迷惑を掛けるつもりはない」


第二教室で健一は、内田と山中と一緒に、慶太が持って来てくれた折り紙を模造紙の代用として研究していた。
健一が何やらうれしそうにしているのを見て、山中が声をかけた。
「健一君、何かいい事があったのかな?」
「いえ、別に」健一は真面目な表情になって、折り紙を折り始めた。
慶太も近くの椅子に座って、折り紙を使う健一の手元をじっと見ていた。

そこへ小山があわてて入って来た。
「折り紙は使えなくなった」
「え、どうして?」皆、驚いて小山を見た。

「さっき、奥田の使いが会長のところへ来た」小山が息を切らしながら椅子に座る。
「知り合いの大学教授に聞いたらしい。折り紙は数学の教材として広く認められている。定規とコンパス以外の独立した教材である折り紙は教材講義での使用を認めないと言うんだ」
「折り紙の案は中止だ!」山中は悔しそうに言った。

健一は青ざめた表情で机に両ひじをつき、無言のまま両手で頭を抱えた。

小山が言う。「しかし、どうして折り紙のことを奥田が知っているのだろう」

「とにかく」内田が言った。「次の教材を考えよう。これであきらめるわけにはいかない。今はまだ教材として認められていないもの。ありふれたもの。その中に、問題を解決するための教材性を探すんだ」


慶太は折り紙が入ったきれいな箱を持って、肩を落とし、木造校舎の正面玄関から出て来た。
ゴム跳びをして遊んでいるトモミたち三人の女の子が、慶太に気がついた。
「あ、お兄ちゃん」

慶太がその箱を地面に叩きつけると、千代紙の貼られた蓋が外れ、中の折り紙が散らばった。
女の子たちはあわてて駆け寄ると、箱を踏みつけようとして膝を上げる慶太を、三人がかりで校舎の壁際に押し留めた。

トモミは折り紙の箱を両手で抱きしめると泣き出した。
「お兄ちゃんのバカ!」
他の子供たちもトモミにつられて泣き出した。
慶太は校舎の壁板に自分の額を押し付けると、声を立てずに泣いた。

<第20話 終>

■参考 星座のうた(歌詞 楽譜)