<第19話> 木造校舎

月曜日の午前中を木造校舎の図書室で過ごした健一が正面玄関から外へ出ると、波木は校舎の壁板を修理しているところだった。
釘を打つ波木の様子を健一が見ていると、学校を終えた小学生たちがこの平和台公民館内の学童クラブへ集まって来た。
「会長さん、ただいま」
「サトちゃん、おかえり。エッちゃんは?」
「ともだち連れて来る」
「そうか。学校の宿題は出たかい」
「出ました」
「できたら持っておいで。見てあげるから」
「はい」
女の子は、校舎の中へ入って行った。

波木は健一に気がついた。
「健一君、村に残ってくれたんだね。佐藤君に聞いたよ」
「はい。午後は佐藤さんの紹介で、平和台高校の図書室へ行くつもりです」
「今度の教材講義については、内田君たちも一緒に原稿を作るから。気楽にやってくれよ」
「ありがとうございます。…あの、タケシに聞いたのですが、会長さんはこの木造校舎、正式には平和台公民館の館長さんでもあるのですね」
「肩書きは館長でも、掃除もやれば修理もする」
波木は金槌で壁板に釘を打ち付けると、手で具合を確かめた。
「このあたりの壁板は外れかかっているのがいくつかあるんだ。今日はこれくらいにしておこう」

平和台小学校の田中校長がやって来た。
「おや?健一君は村に残ってくれたのか」
「はい」
「よろしく頼むよ」
田中は波木に言った。
「工場の説明会は、あさって水曜日の午後だったな」
「汚染物質除去装置のメーカーの担当者と、それを設置する工場側の責任者とを引き合わせる。工場側が設置を了承すればいいが」
「新しい移転先は決ったのか?」
「寺の和尚さんに話してある。しばらくそちらを使わせてもらうよ」
波木と田中が話をしている間、健一は校舎の中へ戻った。

正面玄関を入り、靴箱の並びを過ぎて上履きに履き替えると、左側は事務室の受付窓口になっている。
右側の壁には"木造校舎の歴史"と書いてあるパネルの下に、写真や図表が掲示されている。
その前に置かれたテーブルの上には、校舎の模型が置いてあった。

話を終えた波木が、道具箱を片手に玄関から入ってきた。
「食事は済ませたのかい?」
「はい。…あの、これは木造校舎の模型ですね」
「学童クラブの小学生たちが中心となって作ったんだ。なかなかうまくできているだろう?」



波木は模型に被せられたプラスチックの透明な四角いカバーをはずした。



「この屋根をはずすとね、中の様子が見える」



「上から見ると、手前が南側の正面、奥が北側。左は西側で教材クラブと学童クラブがある。右は東側で、集会所や図書室、音楽室になっている」
健一は熱心にその模型を見ていた。

「体育館や別館もあったけれど、平和台小学校が新校舎に移った後、取り壊されてこの校舎だけ残された」
「この校舎はいつ頃作られたのですか?」
「明治42年だ。それから昭和10年頃に大改修が行われた。戦後は床板を全て張り替えたらしいが、木造の壁や窓枠は昔のまま残されている。
寄棟式の赤い屋根。南の正面玄関は切妻式だ。この外観は建てられた当時から変わらない。東側の廊下で補修工事が必要な所が一部あるけれど、それ以外はしっかりしている」
波木は太い木の柱を見上げ、手を触れた。
「これはヒノキだ。いい香りがする。大切に使えば何百年も持つだろう」

模型が置かれたテーブルの周辺の壁には、古い写真のパネルが何枚も掛かっている。
「あれ?この集合写真、波木芳郎と名前があるのは会長さんのことですか?」
「そう。この小学校に赴任してきた頃だ。まだ三十前だよ。
ほら、ここにいる田中誠というのは、さっき来た田中校長さ」
「そうなんですか」
「この小学校に赴任して、田中と私はこの平和台村がとても気に入った。結局二人とも、この村に家を建てたんだ」
「ずっと平和台小学校の教師をされていたのですか?」
「最初の5年間だけで、あとは他の地域の小学校だった。
田中も同じだけど、最後に校長として平和台小学校に戻って来た。あそこに見える新校舎だ。
私は教師を辞めて、この木造の旧校舎に戻って来た。
田中は最新式の校舎の管理人、私は思い出深い木造校舎の管理人というわけさ。
誰にでも向いている仕事というものがある」
そう言うと、波木は楽しそうに笑った。

「この写真は、この木造校舎を寄贈してくれた浜崎惣五郎氏の米寿のお祝いのときの写真だ」
波木が指差す写真の中央で、二十人位の人々に囲まれて和服を着て座っている老人を健一は見た。
「真ん中に写っているこの人が建てたのですね」
「そうだよ。学校の敷地も、惣五郎さんの山を切り拓いてできた土地だ」

「ここはむかし、とても貧しい地域だったそうだ。平地が少ないから、田んぼや畑をつくるために大掛かりな土木工事が必要なんだ。
米や野菜、果物の収穫量も少なかった。
惣五郎さんは材木で富を作ってね、そのお金でこの小学校を建てた。子供たちが教育を受けることができれば、貧しい村でも将来はきっと豊かになれると信じたんだなあ。
むかしは全国各地にそういう人物が現れたそうだよ。しかも、都会よりも豊かではない地域に現れることが多いそうだ」

波木は二人の人物が並んで写っている写真を指差して言った。
「これは昭和24年、創立40周年の時の写真だ。
和服を着ているのが惣五郎さんで、隣に立っている人は当時の校長先生だ。
この先生はまだご健在でね、たまにこの校舎にも遊びに来られるよ。」
「惣五郎さんと手をつないでいる女の子は、この小学校の生徒でしょうか?」
「どれ?・・・この子はまだ4歳か5歳くらいだろう。
たぶん、孫娘じゃないかなあ」


「おい、健一はどんな様子だ?」
東側玄関から入ってきた松五郎が、そこで見張りをしていた二人の部下に訊ねた。
「さっき図書室を出ました。朝の8時から入りっぱなしだったんで…」
「ほかに誰か来たか?」
「教材作家が二人、健一に本を持って来たようです。すぐ帰りました。仕事中みたいでしたね」
「健一は問題が解けそうか?」
「頭を抱えていますよ。ムリでしょう。しかしあれだけ長い時間、本に囲まれてよく飽きねえもんだ」
「安藤から健一あてに荷物が届いたら、中を調べろ」
「安藤って、あの体のでかい男ですかい?その荷物って?」
「教材だ。もしかすると、その設計図かも知れん。
とにかく、何かが安藤から健一に届く。いいか、その中身をすぐに調べて報告しろ。
それが奥田社長からの命令だ」


午後、健一は平和台高校の図書室を使わせてもらった。
そこで集めた資料を片手に、授業を終えたタケシと一緒に帰る途中で、健一は中学校での勤務を終えた真理子と出会った。
「あら、あなた、まだいたの?」
「…」 真理子の意外な言葉に、健一は何も返す言葉がなかった。
「真理子さん、そりゃあひどいよ」 タケシが横から困ったようにいう。「健一はみんなのために残ったのに」
「あ、そう」
真理子はよく事情が飲み込めないような表情を浮かべたが、すぐに笑顔に変わった。
「ちょうどよかった。帰る途中にポストがあるでしょう?この手紙、出しといて」
真理子は手紙を健一に渡すと、「よろしくね」と言って戻りかけるが、思いついたように振り返る。
「健一君は、タケシの家に泊まっているんだっけ?」
「そうです」
「明日の朝7時に、平和台中学校のグランドに来ない? 毎朝陸上部の練習をしているの。
タケシも一緒にどう?」
「ぼ、僕はいいです。明日の朝、健一をちゃんと起こして行かせますから。
僕に任せてください。なあ、健一…」
タケシはそう言いながら健一の顔を見た。
健一は、緊張とも、喜びともつかぬ表情で、「はい、行きます」と言った。

真理子が行ってしまうと、健一は預かった手紙のあて名を見て、「速見さんあての手紙だ」と言った。
「そ、そうか?」タケシがぎこちなく答えた。
「速見さんに、今度の講義に関係ある情報をさあ…書類を送ってほしいとか…そういう依頼だと思うよ。きっと」
「情報をもらえたら、僕も助かるよ」健一はうれしそうに言った。
健一は手紙をポストに入れると、タケシと別れて木造校舎に戻った。そして西側の第二教室の席に座ると、集めた資料を注意深く読んだ。


校舎の東側、第二集会室の窓の外に置かれたウサギ小屋の近くでは、ウサギを抱いたトモミと二人の女の子が、小屋を修理する高山と慶太を見ていた。
慶太は、ウサギ小屋の木枠を手で支えながら、修理している高山に話しかけた。
「先生・・・」
「何だ?」
高山は金槌で木枠に釘を軽く打ち付けながら慶太の言葉を待った。
「・・・」
慶太は木枠を持ったまま、黙っていた。

高山と慶太がウサギ小屋の修理を終えると、トモミとその友達がウサギのハナを小屋の中に入れてやった。
高山は白いタオルで首の汗を拭きながら、慶太を見てニッコリ笑った。
「慶太、お疲れさん。僕は新校舎の職員室に戻るから。すまないが、道具箱をここの管理室に戻しておいてくれないか?」
「わかりました」

高山とトモミたちが行ってしまうと、慶太は金槌などが入った道具箱を抱え上げた。
慶太は木造校舎の壁に沿って造成された細長い花壇の横を、正面玄関の方へ歩いた。
すると西側から校舎沿いに上級生が二人歩いて来た。
上級生は向い側から歩いてくる慶太を見て、「こわし屋が来たぞ」とささやき合った。

慶太は玄関の手前で立ち止まり、大工道具が入った箱を地面に下ろすと、金槌を右手に取ってゆっくりと上体を起こした。
「おっかねえ〜」
上級生たちは、慶太を遠巻きにしてすれ違うと、「こわし屋!」と叫び、笑いながら走って行った。
「フン」と鼻を鳴らすと、慶太は木造校舎の方に体を向けて、外れかかった壁の板張りを、金槌で叩いて修理し始めた。

健一が本を小脇に抱えて木造校舎の正面玄関から出て来ると、慶太に気がついて声を掛けた。
「その板が外れかかっているの、僕も気になっていたんだ。直してくれてありがとう」
「オレは直してるんじゃねえ!」 慶太は叫んだ。

慶太は壁に力一杯金槌を打ちつけると、健一をにらみ、卑屈な表情でニヤリと笑った。
「こわしてるんだ。オレはこわし屋だからさあ…」
「君はこわし屋なのか」

慶太の背後を通り、そのまま歩いて行こうとする健一を、慶太は急いで振り返った。
「何?誰がそんなこと言った!」
「君が言ったじゃないか」 

慶太は健一の前にすばやく回り込んで立ち塞がった。
そして自分よりだいぶ上背のある健一を見上げ、にらみつけて言った。

「お前は見たのかよ」
「何を?」
「オレがウサギ小屋をこわすところをだよ」
「見てないよ」
「見てもいないのに勝手なこと言うなよな!」

健一は慶太をにらみ返して言った。
「どうして君は、自分はやってないって言わないんだ!」
「お前には関係ないだろ!」
慶太は健一を見上げ、にらみつけたまま動かなかった。

その慶太の表情をじっと見ていた健一が口を開いた。
「おい、そこをどいてくれよ。僕は帰りたいんだ」
「オレはこの場所が気に入ってるんだ!」
「そうかい」 健一はあきれた顔をして言った。「それならよけて通るよ」

健一は立ち塞がる慶太の横を通って行った。
慶太は健一の背中をにらんだまま、ゆっくりと健一の後を追った。

校舎の壁に沿ってしばらく行くと、東側玄関の近くで四郎を含む中学生三人と、体の大きな高校生の鉄也が笑いながら話をしている。
その前を健一が通り過ぎようとすると、鉄也が健一に声を掛けた。
「おい、お前、バカなんだってなあ」
健一は立ち止まると、鉄也を見て言った。
「誰がそんなこと言ったのかい?」
「みんな言ってるよ」 四郎が言う。「デロスの問題は、19世紀に解答不可能だと証明されたんだって。解こうとしたってムダなんだって」
鉄也が眉をひそめて言う。「みんな知っているのに、何でお前だけ知らないんだよ」
「僕が解きたいのは、デロスの問題じゃない」
健一がそう言うと、他の中学生が口を挟んだ。
「その問題が解けなかったら、この校舎は壊されてしまうじゃないか」
「この校舎が壊されないようにするためにはどうすればいいか。僕はその方法が知りたいんだ」
四人は顔を見合わせて黙り込むと、声を立てて笑い出した。
そして、「バカは相手にしていられねえや」と捨てゼリフを残して行ってしまった。
何事も無かったかのように正門の方へ歩いて行く健一の後ろ姿を、校舎の陰から慶太はじっと見つめていた。
健一が行ってしまうと、慶太は大工道具の後片付けをするために戻った。


火曜日の朝、健一は真理子に言われるまま、中学校のグランドへ行き、走り幅跳びの練習に参加した。
運動の苦手な健一は、苦手なりに精いっぱい跳ぼうとしたが、何度やっても背中から砂場に落ちた。
そのたびに女子中学生たちが笑った。
真理子は腕組みをしたまま、その姿をじっと見ている。
「健一、さっき言ったように跳ぶのよ。もう一度やってみて」
健一は砂まみれの体を起こしてうなずくと、ふたたびスタートラインへ向かった。
ハラハラしながら健一を見ていた陸上部顧問でもある中年の男性教諭が、真理子のそばに駆け寄った。
「波木先生、彼にはちょっと・・・無理じゃないでしょうか」
真理子はそれには答えず、スタートラインに立つ健一に呼びかけた。
「健一、跳びなさい!」
真理子が笛を吹くと、健一は走り出した。
全力で加速し、踏み切り板でつまずくと、顔から砂に埋まった。
中学生たちは笑い転げた。
男性教諭はあわてて駆け寄ると、健一を砂の中から救い出した。
真理子はタオルで健一の顔についた砂を拭いてやりながら言った。
「まだまだね。でも、きっとうまくなるわ。
明日も来るでしょ?」
健一は黙ってうなずいた。


その日の午前中、木造校舎の前では、工場を営む丹波社長が記者団の取材に応じていた。
「わが社は地域貢献型の企業を目差しているのです。長期的な投資対象となることでしょう」
横には平和台村役場の早川、そして工場の建設工事を受け持つ平和台開発の奥田とその部下たちが立っている。

「地域貢献型の企業とは?具体的に何をするのですか?」
記者の質問に、新工場の人事部長として紹介された山崎が答えた。
「当初の操業に必要な工場の人員は1000名、しかしわが社は1500名を正社員として採用する予定です。1500名分の所得は、平和台村の需要を支え、村の経済を活性化させるでしょう」

「過剰な労働力となる500名はどうしますか?」
「その500名は、平和台村からの行政派遣として、研修の後、交代で地域社会貢献を行います。
彼らはわが社のノウハウを様々な業界で生かし、地域社会全体を効率化させるでしょう」

「行政派遣を受け入れる会社や団体がなかったらどうしますか?」
「行政派遣認定企業は様々な業種から構成されています。それぞれが知恵を出し合い、民間企業の連携により新しい事業を計画することができます。その計画を行政派遣共同事業体として、平和台村によって実現していただきます」

記者たちは、平和台村役場の早川に質問した。
「早川さん、平和台村は、民間で計画した事に公的な予算を使うのですか?」
「行政派遣関連予算の中から、行政派遣共同事業体が運営する施設のための事業費を出すことになります。
これまでは計画も実施も平和台村で行いましたが、無駄な施設もできました。
これからは計画や運営面で、参加企業の得意な能力を十分に発揮してもらいたいのです」

「それは民間からの出資も受け入れるのですか?」
「受け入れは可能です。しかし通常の出資のように利益配当という考えはありません。出資額に応じて、多くの社員をその共同事業体に派遣することができるということです。つまり出資額に応じて利益を得るのでなく、費用を補うことができるのです。
平和台村にある企業や団体の全ての人件費の合計額を、毎年どれだけ増やして行けるか、そのことを平和台村は重視しています。そのために、多くの企業や団体の知恵を結集し、協力を仰ぐことが不可欠なのです」

他の記者が言った。「効率の悪い企業を温存することにはなりませんか?」
「経営の効率が悪く企業の評判が下がれば、その企業からの行政派遣を受け入れようとする企業や団体の数が減少します。また行政派遣共同事業体への出資額も減るでしょうから、そこで受け入れることもできなくなります。
行政派遣は、景気変動や季節的な需給に対応するために、企業や団体が行政機関を仲介役として連携し協力し合う政策であって、努力しない企業を無条件に保護する政策ではありません。そういうぶら下がり企業がいれば、他の企業が困ってしまうのですから」

「派遣に出ていた社員が会社に戻ってみると、自分の居場所がなくなっていたということにはなりませんか?」
「行政派遣協定により、派遣後の業務については、派遣前から決めておきます。そして戻ってから三年間は、本人の同意なく会社がその業務を変更することはできません。つまり席は確保されるのです」

「景気がよくなって、各企業が派遣に出していた社員を引き上げたら、行政派遣共同事業体は人員が不足しませんか?」
「冬山のスキー場や、夏の海の家と同じように、経済状況に応じて休業期間を設けることになります。職員を常駐させるような無駄な運営は避ける必要があります」

記者の一人が言った。
「丹波社長にお聞きしたいのですが、都市部で問題となった環境対策についてはどうでしょうか?」
「平和台開発の奥田君が中心となって自然環境を調べ、環境をそこなわない工場造りを計画しております」
丹波はゆったりと記者の質問に答えた。


丹波社長と奥田たちが記者団に校舎周辺の敷地を案内している間、早川は山崎をつれて、正面玄関から事務室へ入って来た。
円筒形のストーブの上でお湯の入ったやかんが音を立てている事務室の中では、波木と佐藤、そして汚染物質除去装置のメーカーに知り合いがいるという浜崎が話をしていた。
早川は波木に、新しい工場の人事部長となる山崎を紹介した。
波木は二人に浜崎を紹介し、明日の説明会への工場側の参加意思について確認した。

「その件につきましては、部署が違うもので、私ははっきりした事は申し上げられないのですが」山崎は困ったように波木に答えた。
「では」波木が言った。「山崎さんの方から、奥田社長へ伝えてください。私の方からは連絡が取れないのです。文書は送付済みなので、内容はご存知でしょうから」
「わかりました。必ず伝えます。できれば私も参加させていただきます」
「よろしくお願いします」

横で聞いていた佐藤が、早川に言った。
「早川君がここの校庭を、伝統工芸品の販売店舗で埋め尽くし、観光バスを連れてくると言っていたから乗り気だったんだぞ。平和台村の教師の数を増やせると思ってな」
「先生方の行政派遣についてですか?」
「そうだよ。行政派遣共同事業体としての陶芸品や木工品をあつかう工房に、教師を交代で行政派遣する計画だよ。村の産業は、社会科の授業でも生徒たちに教えることがある。その伝統技術の基本は、教師が習得しておいてもいいだろう。行政派遣が軌道に乗って、村の人口が増えれば、学校の生徒数も増えるから、教師も増やさなければいけない。そのために、今から教師の数を2倍にして、行政派遣をしながら育成できないか?そんなことを考えていたが、ここに工房をつくる計画は消えたのだなあ」

早川は苦笑いをして言った。
「そういうお話をしたこともありましたが、小さい店舗の寄せ集めでは先が読みにくいのです」
「君がいつも言っている、効率が悪いということだな?」
「そうです」
「それならば、仕方がないなあ」


取材を終えた記者たちが乗った数台の車が、校舎の横の坂道を下って行く。
そのすれ違いに、一人の老人が杖を付き、たどたどしい足取りで坂道を登って来た。
老人は坂の上にたどりつくと、ポケットからハンカチを取り出して顔をぬぐった。
松五郎と二人の男たちがそこを通りかかると、歩き出した老人がハンカチを落としたことに松五郎が気づいた。
「おい、じいさん」
松五郎が声を掛けても、老人は振り返らずに歩いて行こうとする。
松五郎はハンカチをつまみ上げると、老人の前に立って、「落としたぜ」 とハンカチを差し出した。
老人は微笑を浮かべると、「本当に今日はよい天気ですな」 と言った。
松五郎は不審そうな顔をして、ハンカチを差し出した。
「このハンカチ、あんたのだろう?」
老人は差し出されたハンカチを見て、
「おや、これは、私のハンカチですかな?」 と言った。
松五郎は、うんざりしたような顔をしてハンカチを老人に握らせると、
「もう落とすなよ」 と言って、校舎より一段下がった生垣の向うの駐車場へ走って行った。
そこへ丹波社長と奥田、その後ろからゲンと男たちが歩いて来た。

駐車場から急いで出てきた車に乗り込もうとして奥田がドアを開けると、その姿を見ていた老人が驚いたような声をあげた。
「雄司、お前はユウジではないのか・・・!」
奥田はドアを持つ手を止めて、その老人をじっと見た。
「社長」 運転席から松五郎が声をかける。 「そのじいさん、ちょっとここがいかれているみたいですぜ」
そう言いながら、松五郎は自分の頭を人差し指でたたくような仕草をした。
奥田は黙って車に乗り込んだ。
坂の上から見守る老人の前を、三台の車が走り去った。


この日の午前中、健一は真理子の紹介で、平和台中学校の図書室を使わせてもらった。
顔に絆創膏を貼った健一が本を読んでいると、「どう?調子は」と、授業の合間に真理子がやって来た。
「中学生の頃に読めなかったことでも、今ならとても面白く読めます」
「そう。よかったわね」
午前の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、健一が図書室を出て廊下を歩いて帰ろうとすると、陸上部らしい生徒たちがクスクス笑いながら会釈をして通り過ぎた。
午後、木造校舎に戻った健一は、内田と山中が持って来た資料を第二教室で一緒に調べた。


内田たちが指導員として学童クラブを担当する時間になると、健一は校舎の外に出た。ベンチで仰向けに寝ころんで本を読んでいると、慶太が歩いて来た。
「おい」
顔に絆創膏を貼った健一を、慶太は立ったまま見下ろしている。健一は上体を起こしてニッコリ笑った。
「オレたちの秘密基地に案内してやる」
健一は何も言わずに立ち上がると、慶太の後からついて行った。

校庭の正門から出て横の坂道を下り、その途中にある駐車場から右へ曲がって川沿いの急な斜面を少し登ると、運動場の金網の外側に広がる雑木林の裏側に出た。
健一が木造校舎の方をみると、運動場として使われている広い更地の向こうに、校舎南側の正面が左右に翼を広げたようにはっきりと見えた。

慶太の後をしばらく歩いて行くと、崖の下側に小さな洞窟のようなものが見えて来た。
慶太が言う秘密基地の広さは三畳ほどで、奥に古い戸棚とテーブルが一つ、椅子が二脚ある。
その手前にはハイキング用のビニールシートが敷いてある。
健一と慶太が来たときには、すでにトモミとその友達の女の子二人、そして男の子二人の五人がいた。
一人の男の子は裸足でシートの上に膝を抱えて座り、トモミが濡れた靴下を洗濯バサミでひもに掛けているところだった。

「ナオヤはどうかしたのか?」慶太が訊ねると、「足が滑って、小川の中に入っちゃったのよ。靴と靴下を乾かしているの」とトモミが言った。
子供たちは慶太の後ろにいる健一に気がつくと、言葉を失い、身をすくめるようにした。
「この人は大丈夫だ」慶太が言った。「この前、いなくなったハナを探してきてくれた兄さんだ」
「伊藤健一です」
トモミたちはそれぞれ自己紹介すると、健一のことを「健一にいちゃん」と呼んだ。

ナオヤは裸足のまま、普段着のシャツに黒い蝶ネクタイを着け、バイオリンを片手に、健一にうやうやしく一礼した。
トモミが、「この前、バイオリンの発表会があったんだって。黒い服を着て、蝶ネクタイを着けて弾いたんだって」 と興奮したように健一に言った。
「本当?聴かせてほしいなあ」
健一と子供たちが見守る小さな洞窟の前で、ナオヤのバイオリンの音色が響いた。

演奏が終わり、子供たちが秘密基地で何やら忙しく動き回っている間、健一は戸棚の上にある赤くて大きな円柱形の物を不思議そうに見ていた。
「健一さん、あれ何だと思う?」慶太が横から声をかける。
「何だろう。ジュウタンかな?」
「バージンロードだよ」
「え?」
健一は驚いて慶太を見た。
「結婚式で花嫁さんが歩く、赤くて長いジュウタンだよ」
「どうしてここにあるんだい?」
「平和台で一番大きな結婚式場がつぶれちゃって、そこの社長さんが教材クラブの人だったから預かったんだ」
「預かったって? いつか返さなくちゃいけないのかい?」
「社長さん、またいつか帰ってきて、平和台に結婚式場をつくりたいんだって。
これは記念にもらったんだけど、それまで預かっておくつもりなんだ」

健一と慶太が秘密基地を出て、坂道の下の駐車場まで戻って来ると、遠くから呼ぶ声が聞こえた。
「おい、慶太!宿題やったのか?」
内田が、木造校舎が立つ丘の上から声を掛ける。
「見てやるから、ノート持って来い!」
「お願いします!」
慶太は横に立つ健一の目をじっと見上げると、小声で言った。
「秘密基地のことは、大人たちは誰も知らないんだ」
健一はニッコリ笑う。
「わかってる。誰にも言わないよ」
ランドセルの音をガチャガチャいわせながら、慶太は坂道を駆け上って行った。


健一が木造校舎に戻ると、タケシが決り悪そうに健一を手招きした。
「どうした?」
健一がタケシのそばに寄ると、真理子が雑巾とタワシ入りのバケツを持って来た。
タケシが言う。「でも、健一はデロスの問題の解法を見つけるために、一分でも時間をムダにできないと思うけど」
「あなた、トイレ掃除を時間のムダだと言うわけ?」
「いや、そう言うつもりじゃ・・・」
「あの、僕、やります」 健一が言う。
「あら、気が進まないのにやらなくてもいいのよ」
真理子は健一の目をじっと見た。
「あなたは私たちにとって、お客様なのかしら?それとも、仲間なのかしら?」
「仲間です」 健一はきっぱりと言った。
真理子はニッコリ微笑みながら、バケツを健一に差し出した。
「お願いね」

健一とタケシは、木造校舎内のトイレを、毎日掃除することになった。
「健一、そんなに熱心にやる必要はないよ」
健一は雑巾を片手に、黙々と水拭きしている。
「何も健一がやることなかったんだ。どうして断らなかったんだよ」
「いいじゃないか。決めたんだから」
「何でそう決めたんだよ!」
「知るもんか!」
タケシは雑巾をバケツの水で洗いながら言う。
「冷てえ!」
「水は冷たいに決っているさ」
「お前も冷てえ!」

掃除が終わると、二人は真理子に報告した。
「タケシ、掃除できていないじゃないの」
「ええ?ちゃんとやりましたよ」
「目に付くところだけやってもだめよ。目立たないところもきちんとしなきゃ」
「えー?」
タケシは健一を振り返る。「やり直しだってさ」

健一が流し場で雑巾を洗っていると、三人の小さな男の子たちが入って来て、健一の後ろをにぎやかに通り過ぎた。
小学校低学年らしい前の二人は野球帽を被っているが、後ろの保育園の名札を胸に付けている子供は、郵便配達人用の帽子を被っている。
三人が出て来ると、前の二人はさっさと行ってしまうが、最後の子供はその小さな体にそぐわない大きな帽子をぬぐと、健一に向って「ありがとうございます」とおじぎをした。
健一は洗い場で振り返り、笑顔で会釈を返した。
その男の子はニッコリ笑うと走って行った。

「そうなの・・・。私が健一のお母さんに似ているの・・・」
校舎からの帰り道、真理子はそう言いながら健一を見た。
何も言えない健一の代わりに、タケシが答えた。
「実はそうなんだよなあ」
「よし。健一を励ます会をやろう」 真理子が明るい声で言った。
「今日は私が奢ってあげるわ。お好み焼き」

三人は駅前のお好み焼き屋に入った。
「健一、たくさん食べなさい。私の分もあげるわ」
真理子はお好み焼きを目の前のプレートで焼きながら、母親のような仕草で健一に多めに取り分けてやった。
タケシは食べながら少し不満そうに言った。
「いいなー。健一ばっかり」


奥田の事務所が置かれた屋敷の一室で、奥田、丹波社長、山崎、ゲンが話をしていた。
「その少年は東京へは帰らなかったそうだね?奥田君」
「はい」
「一日も早く返すんだね」
「は?」
「少年がこの村を離れたら、解答をあきらめたとみなして、ただちに校舎の解体工事を開始するように。
まつりの会場となっている西側の大教室から解体を始めるといい。
そうすれば向うもあきらめがつくだろう」

ドアをノックする音が聞こえ、そこへ女性秘書が入ってきた。
「お話中失礼します。山崎さんに、平和台村役場の早川様からお電話が入っております。
「ありがとう」山崎が机の上の受話器をとろうとすると、奥田が制して、秘書に言った。
「山崎は長期出張中だ。そう伝えてくれ」
「かしこまりました」
「山崎よ」 奥田は丹波社長のカバンを山崎に持たせながら言った。
「今日から丹波社長付きになってもらう。しばらくこの村を離れることになる」
山崎は驚いて奥田を見た。 「しかし、村役場との交渉は・・・」
「今までよくやってくれた。あとは任せておけ」
「し、しかし・・・」
「心配するな。早く行け」
「では奥田君、あとはよろしく頼んだよ」
とまどうように振り返る山崎を連れて、丹波社長は部屋を出て行った。

ゲンが言う。
「奥田社長、校舎の近くで話しかけてきた老人は、ずっと以前、平和台小学校の教師だった人です」
「・・・そうか」
「私は社長がどうして教材まつり三日目を、一日早い土曜日に指定しなかったのか不思議だったのです。社長はこの校舎の解体を、期限いっぱいまで遅らせたかったのですね」
「バカな!仮にオレがあの老人の教え子だったとしてもだ、これはビジネスだ。くだらん感傷を入れるな!」
奥田はそう言うと、横を向いて大声で言った。
「おい!松!みんなをここに集めろ!」

部下たちが集まると、奥田は椅子に深く座ったまま口を開いた。
「おい、あの高校生はどんな様子だ?名前は…」
「イトウケンイチですかい?」松五郎がいう。
「そのイトケンは、まだ帰らないのか」
「毎日あちこちの図書館通いです。あれだけ本に囲まれて、よく飽きねえもんだ」
松五郎が呆れたように言う。
「午後は木造校舎の方に行っているようです」他の者が答えた。
「何のためだ?」
「他の教材作家たちが心配して顔を出すんですよ。中には仕事着のままやって来て、二三冊の本やノートを置いて、すぐ帰るような者もいます」
「イトケンは何をしている?」
「入れ替わり立ち替わりやって来る者たちに質問をぶつけたり、話を聞いたりしているようです。でも一向に埒があかないようです」
「弱り切っているわけか?」
松五郎が言う。「弱ってるのなんのって、食事ものどを通らず、夜も眠れず、そんな顔をしていますよ」

「早く東京へ返してやれ。お前ら知恵をしぼれ」
「え?あいつ発表があるのに帰っていいんですかい?」松五郎が驚いて訊ねた。
「お前、何も分かっていないやつだな」奥田はあきれ顔で松五郎を見た。
「通常発表会は二日で終わりだ、今年はイトケンの飛び入り参加で三日目ができたのだ。あいつが帰ってしまえば発表会は中止だ」
「中止になったらどうなります?」
「すぐに校舎の取り壊しだ。当たり前のことを聞くな」
「それじゃあ」他の者が聞いた。「日曜日を待たず、今週中に工事を開始できるわけですね?」
「それが明日なのか、あさってなのかということだ。おい、松!明日までに何とかならないか」
「明日って、そんな無茶な…」
「明日までに東京に帰す方法を皆で考えろ。そして報告しろ。いつ報告する?」
「そ、そりゃあ、三時間ぐらい頂かないと…」
「二時間だ。いいな」
そう言うと奥田は椅子から立ち上がり、部屋を出て行った。
「おい、どうする?」松五郎は他の者たちに聞いた。
皆、無言のまま首を振った。


「どうしたの?」
真理子が食卓でティーカップを片手に考え事をしているのを見て、編み物をしている母親の淑子が声をかけた。
「なんでもない」
「あなたが編み物を覚えたいって言うものだから、私も一緒にお父さんのセーターを編んでみたけれど、私より早く完成できたようね。できたのでしょ?速見さんのセーター」
「うん」
「彼にあげたの?」
「講義が終わったら、すぐ大学の方に戻っちゃったから、渡せなかった」
「そう」
淑子はまた編み物を持つ手を動かし始めた。
「速見さんの海外勤務は、いつ頃終わるのかしら」
「そんな言い方しないでよ。彼はいま大事な時なのよ」
「真理子、それまで待つつもりなの?」
「さあね」 真理子は椅子から立ち上がり、大きく背伸びをした。
「私も海外について行こうかしら」
淑子は明るい声で言った。
「どうぞご自由に。
どうでもいいけど、ちゃんと自分の考えを持っておかないと、振り回されるわよ」
「だいじょうぶよ。そうそう、お母さん・・・」


「渡したいものがあるんだけど」
自分の部屋で受話器を持ったまま、真理子は膝の上に置いた手編みのセーターをじっと見た。
机の上の時計は、夜の10時を過ぎている。
「大学の仕事が忙しくてね、現地へ戻る前に、平和台へは行けそうにないんだ」
「じゃあ、また一年近く会えなくなるの?」
「連絡するよ」
「あなたが教育支援で行っている所は、電話もつながりにくいじゃないの」
「手紙を書くよ」
「返事も書かないくせに。私が何通手紙を出せば返事を書いてくれるの?」
「・・・」
「聞いてるの?」
「日本にいられる時間はわずかだ。オレはいま忙しいんだ。あとでゆっくり・・・」
「もう、いい!」
真理子はそのまま電話を切った。
膝の上のセーターは、四角い手提げ袋に入れて、無造作に机の横に立てかけた。

<第19話 終>