波木と速見、健一とタケシが、大きなテーブルを運んで来る。
「この一番重いテーブルは、そのスペースに置こう」
波木が誘導した位置に、テーブルがゆっくり降ろされる。
「重かった!」 タケシは近くの椅子に座り込んだ。
高山と三人の高校生が別のテーブルを運んできて、その隣に置く。
「力仕事はこれで終わりだ。お疲れさん」 波木が飲み物をみんなに配る。
「健一、わるいけど手伝って」美奈子が大きな紙を壁に貼ろうとしている。
「いいよ」健一は飲み物を横に置くと、大きな紙の片側を持った。
「明日のプログラムだね」
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2007年度 教材まつりプログラム
〜テーマ 「ギリシアの三大作図問題」〜
【第1日目】午後1時より
はじめのことば(波木会長)
1.曜日あて七段(注目!名人対決) (講師:鈴木、実演:平和台中学校の生徒たち)
2.みなみのせいざ(満天の時計ドーム) (講師:高山、実演:平和台高校の生徒たち)
3.角の三等分と七等分(正七角形の作図) (講師:速見、実演:平和台小学校の生徒たち)
【第2日目】午後1時より (KS論参加者は午前9時より)
1.KS論
2.デロスの問題(立方体倍積問題:紹介講義)(講師:坂本、伊藤)
3.シャカード・リカード(ShaCard・RiCard) (講師:後藤、実演:平和台高校の生徒たち)
4.円積問題とパイ座標&パイ・ウォーキング(みんなで歩こう26Km)(講師:安藤)
5.星座のうた(講師:高山、実演:平和台小学校の生徒たち)
おわりのことば(佐藤副会長)
ゲーム
第2教室では、「シャカルタ・リカルタ(ShaCarta・RiCarta)」の対戦ゲーム
第3教室では 「曜日あて七段」の勝ち抜きゲームを行ないます。
景品をいっぱいもらおう!!
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教室へ六人の男たちが、それぞれ入ってくる。
「波木会長、入口と廊下のほうも準備終わりました」
「ごくろうさん」
事務局の小山が教室内を見渡す。
「明日の飾りつけも終わったし、あとは本番を待つだけですね」
各自テーブルにつくと、美奈子が運んできた飲み物を飲む。
このうちの一人、ゲンも飲み物を取った。
「それでは、僕たちはこれで失礼します」
三人の高校生たちが帰っていく。
「ありがとう。明日もよろしく」
教室の出口で波木が三人を見送ると、
「こんばんわ」 高校三年生のシゲルがやってきた。
「どうした?シゲル」
「私が呼んだのよ」 真理子がいう。
「シゲルは来月、受験があるんだぞ」
「わかってます」シゲルがいう。「終わったらすぐ帰ります」
「タケシたちのために、シゲルは来たのよ」
真理子は笑いながら、タケシと健一の表情を覗き込む。
「君たち、デロスの問題の準備、ぜんぜん出来ていないでしょう?・・・
いい? シゲルのアイデアを聞いて、参考にするの。ちゃんと自分たちでまとめるのよ」
「今からやるの?」 タケシが悲鳴をあげる。
「もちろんよ。さあ、第2教室にいきましょう」
シゲルと健一、真理子と美奈子は第2教室へ移動する。
「オレ、頭から湯気が出そう・・・」
「早くいらっしゃい!」
タケシがあわてて後につづく。
男が二人、タオルで汗を拭きながら教室に入ってくる。
波木が彼らにも飲み物を渡す。
「手伝ってもらってすみません」
「いえ、これくらいのことしかできなくて、申し訳ありません」
教材クラブ副会長の佐藤が、険しい顔をしてやってくる。
「もうそろそろ帰っていただけないでしょうか?」
「佐藤君」波木がたしなめるようにいう。
「せっかく来られたんだ。・・・」
「しかし、会長!・・・また疑いをかけられてもいいのですか?
彼らのような工場建設反対の運動家が、教材クラブに出入りすることには問題があります」
佐藤は二人の男たちにいう。
「あなたがたは、それを隠していた。
私がそのことを知っていたら、講義など絶対にさせなかったでしょう・・・
いいですか?・・・もう二度と来ないでいただきたい」
「わかりました。皆さんにご迷惑をかけましたことを深くお詫びします。
われわれは、これで失礼します」
二人の男は、その場で一礼すると帰って行った。
佐藤が波木を振り返る。
「会長、教材クラブは村役場の認定があって成り立っているのですよ。
村は工場建設を承認しているのです。
その意向に反するようなことは、なさらない方が・・・」
「わかっている。わかっているよ」
波木はしばらく考えてから口を開いた。
「佐藤君、わたしはこう考えている・・・
教材クラブが新しい移転先に落ち着いたら、新しい考え方でスタートしたい」
「はい」
「その考えを、君がまとめてくれないか」
「・・・」
「私は移転についての雑用のことで、頭がいっぱいなのだ。
新生教材クラブのことまでじっくり考える余裕がない」
「会長は、どうなさるおつもりですか?」
波木は佐藤の気持ちに圧されて、観念したようにいった。
「私か?そうだなあ・・・川魚の研究でも始めるか」
「やめてください!会長」
「それは冗談だよ」
「私は同意できません」
波木がふと顔を上げると・・・
「どうした、ヒロミ」
教室の入口で、中に入るのをためらいながら立っている女子生徒に気づいた。
「だいじょうぶですか?」
「気にするな。さあ中へ・・・おや? 安藤さんも」
「旅館にいるのも退屈なもので・・・何かお手伝いできることありませんか?」
「ちょうど終わったところなんですよ・・・さあ中へどうぞ」
「会長さん」 ヒロミがにっこり微笑む。
「対決するつもりなんですか?」
「対決?」
「この校舎を壊して工場を建てようとしている人たちと・・・」
「自分はそんなに強い人間ではない。ひとりでは何もできないさ・・・」
「終わったー!」 第2教室からタケシたちが戻ってくる。
「何か収穫があったようだな」高山がいう。
タケシは水槽のような透明で四角いプラスチック製の容器を高山に見せる。
「収穫はこれです・・・
このような容器の角を軸にして立てて、一定量の水を入れます。
水の高さが三辺とも同じになるようにバランスを取ったらその長さを測ります。
これが求める2の3乗根」
高山は笑いながらいう。「それだけではよくわからないな」
健一が代わりに答える。
「2の3乗根ということを知らなくても、水を使って測れば、体積二倍の立方体の一辺が求まるということです」
「そんな方法があるのか」
「講義のリハーサルをやってごらんよ」教材作家の一人がいう。
「そうだな」波木もいった。「デロスの問題は、今年のテーマの一つだから、予行練習をしておいた方がいいだろう」
「まず、デロスの問題って何だ?その物語を聞かせてくれよ」佐藤がタケシに訊ねる。
タケシが話し始める。
「むかしむかし、ギリシアに疫病が流行したときに、人々はデロス島にあるアポロン神殿の神託を仰ぎました。
すると、ここにある立方体の祭壇について、体積が2倍のものをあらたに作れ。そうすれば疫病は止むであろう、という神託がありました」
健一が話しをつづける。
「人々が立方体の3つの辺をそれぞれ2倍して祭壇を作ると、体積は8倍になりました。
祭壇を2個並べた長さに作ると、体積は2倍ですが、立方体ではなくなってしまいました。
疫病は止みません」
タケシがいう。
「困った人々はプラトンに相談し、ついに複雑な器械によって体積2倍の立方体の1辺の長さである2の3乗根が求められ、疫病は止みました」
教材作家たちが口々にいう。
「2の3乗根という数は、3回かけると2になるものだね」
「2の3乗根という長さは、定規とコンパスを普通に使っても作図できない。これは十九世紀に証明済みだ」
「関数電卓を使うとね・・・」 電卓をたたいて結果を見せる。「1.25992・・・だ」
「これを、君たちはどうやって求めたのかな?」高山が訊ねる。
「水測法(すいそくほう)です。水の体積をつかって、1辺の長さを測ったのです」
健一が説明する。
「まず、立方体と同じ体積の水を用意して、その量を2倍します。
次にその量を6で割ります。これは、最初の立方体の体積の3分の1です。
そしてこのような水槽の角を軸にして立てて、その水を入れます。
水の高さが三辺とも同じになるようにバランスを取ったらその長さを測ります。
この長さは、最初の立方体の1辺の長さを1としたとき、2の3乗根になっています。」
「なるほど、面白い。これなら当時の人々にも実行可能だ」 高山が手をたたく。
「しかし、実際にやるとなると、大がかりな設備が必要になるぞ」 小山がいう。
「立方体の縮尺模型を使って測定すれば、設備の問題はクリアできるだろう」 他の教材作家が答えた。
アイデアを出したシゲルがいう。
「複雑な計算を避け、水の体積を中心に考える講義になっているから、小学生や中学生にもわかりやすいと思います」
小山がいう。「つまり、2の3乗根を作図で求めることは避けたわけだね?」
佐藤が感心したように頷いた。「デロスの問題の紹介講義としては、十分成功だと思うよ」
「まあ、これでひと安心ね」 真理子と美奈子が、顔を見合わせて微笑む。
タケシは得意そうな顔をして、今度はヒロミに自分のノートを見せる。
「ヒロミ先輩、見てくれよ、このノート。・・・オレが書いたんだぜ」
「へえー、黄金直角三角形の垂線の長さを計算しているのね。やるじゃない」
「しかし今日は頭を使いすぎた。熱が出そうだ・・・」
タケシは椅子に座り、両足を投げ出してくつろぐ。
ヒロミがタケシの肩をポンとたたく。
「頭の中の、日頃使っていない部分を使ったからよ。
ちゃんとウォーミングアップした?
急にやるとケガするわよ」
タケシがヒロミをにらむ。「ねえ、からかわないでくれよ!」
波木が笑いながらいう。
「まあ、せっかく速見君に稽古をつけてもらったんだ。
今後もその調子で励むことだな」
タケシはしぶしぶ言う。「わかりましたよ〜」
教室の扉が勢いよく開き、松五郎が入ってくる。
「ひゃー、皆さん大勢お揃いで。これだけ集まれば、今夜中に立ち退きは済みますなあ・・・」
奥田が入ってくる。後ろに三人の部下が続く。
奥田は教室のほぼ中央にある椅子にどっかり腰を下ろすと、あごを上げて荒々しく言い始める。
「波木さんよ。前からあんたには移転計画表を出すように話してあった。
しかし、その必要もなくなったようだな」
「どういうことだ?」
「今から立ち退くのだ」
「何だって?」
奥田はズボンのポケットから、折り曲げたチラシを取り出して開く。
「教材まつりのチラシを見ると、今年のテーマは、"ギリシアの三大作図問題"とある。
しかし実際は二大作図しかできず、残った一つは担当する講師がいない」
「今年のイベントは失敗。取り止めだよ、波木さん・・・
あんたはイベントがあるからといって、移転を先延ばしにしてきた。
イベントの中止が決まれば、ただちに移転開始だ。
そうじゃないかね?波木さん」
波木がいう。
「われわれはイベントの中止を決定したわけではない」
奥田が語調を強める。
「イベント中止の決定権は、この土地の事実上の所有者、つまり俺たちにある」
「何をいっている?」
奥田はゆっくり話し始める。
「この土地は、現在の所有者の祖父の時代から、所有者の好意によって、長年平和台村が小学校の敷地として使ってきた。
そして小学校は三年前、新しい校舎へ移転した。現在の所有者は売却を考えている・・・
イベントが終わるまで立ち退きを待ってやろうというのは、現在の土地所有者と、新しく所有者となる俺たちのご好意だ。
・・・そうじゃないかね?」
波木が答える。
「ここを借りるための契約期間は、満了まであと一年間残っている。それを来年三月までの四ヵ月間に短縮すると、われわれは合意した。
これは学童クラブに適した場所を探すために必要な期間だ・・・
平和台村の子供たちの教育のために、長年この土地を使わせてくれた所有者の好意に、われわれは感謝の気持ちを持っている」
奥田は「フフフ・・・」と不敵な笑いを浮かべると、表情を変え、退屈そうに周囲をぐるりと見回した。
「しかしなさけない連中だ。自分等でギリシアの三大作図を企画しておきながら、結局、第三の問題を講義できる人間は、ここには誰もいないとはなあ・・・」
波木がいう。
「今回は紹介講義を行う。講師はここにいる二人の高校生だ」
「紹介ではない。実際の作図を行なうのだ。作図問題を解くのだよ」
「この作図問題の解答が不可能であることは、十九世紀に証明済みだ」
「ルールをはずすんだろ?チラシによると、ルールA、ルールBをはずして解くと書いてある」
「フッホッホッ・・・」
後ろから安藤の笑い声が聞こえてきた。
「特殊な定規を使えば、デロスの問題は解くことができるのです」
「本当?安藤さん!」真理子が喜びの声をあげる。
奥田は安藤の近くに立っているゲンをにらみつける。
ゲンは驚いた表情で、かすかに首を振る。
「しかし」 安藤は困ったような顔をした。
「今はその資料を持っていないのです。講義はあさって二日目でしたよね。
準備のために教材まつり延長第三日目を設けてもらえるとありがたいのですが・・・」
真理子がいう。
「教材まつりは平日には行わない決まりだから、第三日は来週の土曜日か日曜日ね」
「そうしてもらえると、ありがたいです」
安藤がほっとしたようにいう。
「延長は認めない」
奥田が口を開く。
「もし延長するのであれば、ルールははずしてはならない」
「そんな無茶な!」
ゲンがすかさず驚いたような大声をあげる。
「ルールAもBもはずせないのであれば、解答は不可能。
そのことはすでに十九世紀の数学者によって証明されている。
・・・せめてルールBだけでもはずしてもらわなければ無利だ」
「よし」
奥田がゆっくり立ち上がる。
「ルールBだけはずしてやろう。しかし、ルールAは、はずしてはならない」
「定規とコンパスしか使えないってこと?」
真理子がぽつりと言う。
「そうだ。使える教材はすべてここにある」 奥田は教室の前方を指さした。
教壇の横にある小さな机の上には、古びた黒板用の教材が重なっている。
教材はすべて木製で、50センチほどの長さのコンパス、目盛が消えかかった直線定規と三角定規、そして分度器などであった。
奥田はそこまで歩み寄ると、重なっている教材の一つ一つを手に取った。
「この定規には何か書いてあるぞ・・・"大正十二年度卒業記念"、
コンパスは、"昭和十年度卒業生一同"・・・すべて戦前のものばかりだ・・・
目盛も、ほぼ消えている。しかし、機能としては十分使える。そうだろう?」
「でも・・・」
真理子は焦ったように言いかける。
「いったい誰が、講義をするの?」
重苦しい空気が流れた。
「僕、やります」
健一が言った。
「だから・・・真理子さん・・・そんなに苦しまないでください」
「でも、健一君・・・あなた」
奥田はニヤリと笑う。
「よし!わかった。講師は君だな。
ひとつ言っておこう。
ここにある定規とコンパスのみを使って、君がデロスの問題を解いたら、
われわれは平和台村における一切の開発計画を中止する」
「えー!」
ここに集まった教材クラブのメンバーたちは、ゲンを除いて皆一様に反応した。
奥田は続ける。
「教材まつり第三日の日程だが、一日猶予を与えて、来週の日曜日としよう」
「そのかわり、この問題を解けなければ、あるいはそれまでの間に解けないことが判明したら、
ただちに校舎の取り壊しを開始する。
異論はないかね?波木さん」
波木は目を閉じて思案する。
「会長、やりましょう」
「皆で健一君を支援します」
教材作家たちが口々にいう。
「待て」
副会長の佐藤が割って入る。
「これは危険な賭けだ・・・
結論を急ぐべきではない。いまから議論しよう」
全員の視線が、波木に注がれる。
波木の目が開く。
「この村のために、われわれにできることは限られている。
できる範囲のことに全力を尽くさずして、ほかに何をやるというのだ」
波木は奥田と視線を合わせる。
「よし。第三の問題で決着をつけよう」
その夜は、満天の星空が広がっていた。
健一は美奈子を送って平和台駅前にある旅館の近くまで歩いてきた。
教材作家たちの話題から、美奈子は急に話を変える。
「健一がなぜあの問題を引き受けたか、当ててあげようか」
「え?」
「真理子さんのこと、好きなのね」
「ち、ちがうよ」
「ちゃんと顔に書いてあるわよ」
美奈子は悪戯っ子のように健一の表情を覗き込んだ。
健一は少しうつむいてから顔をあげ、
「似ているんだ」と言った。
「誰に?初恋の人?」
「母さんに」
美奈子の表情が少し曇った。
「お母さん?」
「赤ん坊の頃の僕を抱いた母さんの写真に、そっくりなんだ」
「あの写真ね・・・小学生だったあなたの家庭教師を私がしていた頃、あなたの机の上に置いてあったのを憶えている。
お祖父さんもおっしゃっていたわ。自慢の娘だったって」
「お祖父さんはそんなこと言わない!・・・
母さんは僕を身籠った後、家出した。そして独りで僕を育てたんだ」
「母さんが病院で亡くなって、祖父母が三歳の僕を引き取った。
そのとき、お祖父さんはとても怒っていたって、お祖母さんが言っていた・・・
お祖父さんは母さんのことを許していない・・・」
「でも、健一のことを引き取ったでしょう?」
「それは、お祖父さんの会社を継がせる人間が必要だから」
「健一は、あんなに大きなお屋敷に住んでいる。将来を期待されて・・・」
「期待されているんじゃない!利用されているだけだ!」
「おじいさん、厳しい方なのね」
「許してもらえないなんて、母さんがかわいそうだ・・・」
「でも、真理子さんは、あなたのお母さんじゃない」
「わかってる」
「真理子さんの願いをかなえようとして、健一は無理をしている」
「無理なんかしていない!」
それから旅館に着くまでの間、健一は黙っていた。
「今日は、しっかり眠って。あなたはとても疲れているから」
明るい旅館の玄関先で美奈子はいう。
健一は、はっとして美奈子をみると、笑顔を見せた。
「うん・・・それじゃあ、おやすみ」
そのまま健一は、星の瞬く夜道を、ひとり戻って行った。
<第8話 終>