<第3話>
タケシが真理子の顔色を窺うようにして言った。
「実は、健一君に、デロスの問題を担当してもらおうと思うんだ」
「えー? あなた、教材作家のバッジが欲しかったんじゃあなかったの?」
「そりゃあ、来年は高校三年生だし、そろそろバッジをつけてもいいかなって思うけど、・・・
あの問題を解くことは、僕には無理かなあって、・・・」
「デロスの問題を教材として、数学の面白さが伝わればいいの。問題そのものを解けなんて誰も言ってないでしょ?・・・
定規とコンパスの通常の使用ではあの問題は解けないってことは、十九世紀に証明済みだって」
真理子は少し強い口調で言った。
「教材作家の仕事は、問題を解決するための教材を作ったりするだけではなく、教材を紹介することも、とても重要な仕事よ」
教室の入り口から相撲取りのような体の大きな男が入ってきたことに、真理子とタケシ以外の人は気がついた。
真理子は続けて言った。
「平和台教材クラブの教材作家認定バッジは、他のクラブの教材作家たちも欲しがるバッジなのよ。・・・
せっかくの機会なのに、講義をしなければ、認定もできない」
「私はそのバッジをもらいに来ました」
大きな体を揺すりながら、男はにこやかに言った。
シャツの左胸には、様々な教材クラブの認定バッジが、ジャラジャラと音がするように沢山付いている。
「安藤さん」真理子がにこやかに答える。「とうとう、平和台にもいらっしゃいましたね?」
安藤は笑って、みんなに言った。
「私は教材クラブの名物男で、全国の教材クラブ認定バッジを集めるのが趣味なんです。・・・
今度こちらで"ギリシアの作図不可能問題"がテーマになると知りまして、・・・
私の円積問題についての教材講義がお役に立つのではないかと参上した次第です」
「お待ちしていました。よろしくお願いしますね」
真理子がそう言ったので、安藤は丁寧に頭を下げた。
波木と速見が安藤に話しかける。
真理子は、タケシと健一、美奈子の方を向き直った。
「あのー」健一が言った。「デロスの問題の担当のことは、駅ではじめて知ったのですが、そういうことでしたら、やっぱりタケシ君が担当した方がいいと思います」
「そりゃないよー。健一・・・」
真理子はにこやかに二人を見比べて言った。
「それじゃあ、二人の共同発表ということにしたらどう?二人で原稿を書いて、交代で講義を行うの」
「ああ、そうしましょう」健一はうれしそうに言った。
しかし、タケシはそれでも不満な様子だ。
「やりたくないのに」と小声で言った。
安藤や波木たちの笑い声が響く。安藤が真理子たちに視線を向ける。
「それでは皆さん、また明日来ます」
そう言うと、にこやかな笑顔を振りまいて、安藤は帰って行った。
安藤の足音が遠ざかる木造校舎の廊下を、にぎやかな子供たちの声が近づいてくる。
「高山君が来たな」机で書き物をしていた波木が顔を上げた。
「こんにちは」高山が、五人の小学生と一緒に教室に入ってきた。
「高山先生、…」 速見が声をかける。
「速見さんが日本に戻られていると聞いたものですから」 高山は子供たちに言った。「みんな、外で遊んでおいで」
子供たちは嫌がって、出て行こうとしない。
「高山先生は、今度、教師を辞められると聞きました。決心されたのですね」速見が言った。
「ええ。家業を継いで、寺の住職になることにしました」
「だいぶ悩んでいたがね」 波木が言った。「一番いい選択をしたよ」
「波木会長には、いろいろ相談に乗っていただきありがとうございました」
「まあ、子供たちにとっては、少し残念かもしれないがね」
「波木会長、ひとつご相談なのですが」高山が言った。
「何かな?」
「今度の教材発表で、歌う教材を追加したいのです。演奏や歌を、子供たちが手伝ってくれるようなので」
「それはいい。高山君は初日のニ番目の発表だったよね。そうだなあ、・・・
二日目の最後の発表として、今年の教材まつりを、歌う教材で締めくくろう。歌の題名は?」
「星座のうた、という題名にしたいと考えています」
波木はメモをとる。「星座のうた・・・ね。子供たちとの合奏か。・・・
みんな、高山先生との、いい思い出ができるな」
子供たちはうれしそうに頷いた。
高山は子供たちに言った。「演奏は明後日の午後だから、明日の夕方、また練習しよう。・・・
じゃあ、今日は解散!」
「はい」五人の小学生たちは、元気に外へ出て行った。
波木が言った。「それでは、早速パンフレットに追加することにしよう。私は事務室にいるから。・・・
真理子、手伝ってくれ」
波木会長と、真理子は隣りの事務室へ行った。
タケシが口を開く。「高山先生の発表は、星座についてですが、先生のご専門は国語なんですよね」
「うん、そうなんだよ」高山はにこやかに答えた。
健一が言う。「落合クラブでも社会科の先生が数学の講義をしたり、数学の先生が、俳句の講義をしたりしていますよ」
「教材作家として講義をすれば、専門や資格は問われない」高山が言う。「学ぶ楽しさを伝えることが、目的だからね」
「先生は、本当は、理科の先生になりたかったのですか?」タケシが言う。
高山は笑って言った。「僕は教師になりたかった。そして教師になった。それだけさ。・・・
国語のすごいところはね、国語をしっかりやると、日本語で書かれたほかの教科の本もしっかり理解できるようになるということだ。
数学や理科の本を読むときだってそうだ。国語をしっかり勉強すると、その本を書いた先生の気持ちが伝わってくるようになる。
すでに亡くなった先生の本を読むときは、特に読書の力が必要だ。読書以外に、気持ちが伝わって来る方法がない。
国語の力は、読書の力。著者の気持ちを読み取る力だ。
人文、社会、自然科学、すべて読書の力が基本だからね」
「読書の力をつけるコツは?」タケシが聞いた。
「食事と同じ。堅い物でもよく噛んで、粗食でもいいから、良いものを、じっくり味わうことだ。
数学者が書いた本でも、一般人向けに書かれたものは、読んでみると本当に面白い。
星座の本も、自然科学の本なのに、神話や詩的表現が随所に出てくる。
数学の講義の前に、基礎的な数学の本を読んでおくと、講義も楽しみになる」
高山は速見を見て言った。
「速見先生の角の七等分の講義だって、本当に楽しみだ」
美奈子が言った。「角の三等分なら、定規とコンパス以外の道具を使って可能だとは本で読みましたが・・・
角の七等分もできるのですか?」
速見が答える。「現地で子供たちを教えているときに、偶然見つけたんです。
子供たちが、休み時間に、部族間のケンカを始めたので、あわてて私は仲裁に入った。ケガでもさせたら大問題に発展しかねないですから。・・・
そのとき、見つかったんです。子供たちが教えてくれたようなものです」
「え、どういう方法ですか?」健一も興味を示した。
タケシが言った。「それは、教材まつりの講義を聴いてのお楽しみ・・・ですよね?」
「そうだね。でも、みんなは"コスモ定規"を知っているよね。
僕が海外に最初に持って行った教材は、普通の"コスモ定規"だった。
角の七等分は、"コスモ定規"にある線を書き加えることによって可能になったんだ」
「実は昨年、海外に行く前、はじめて波木会長にお会いしたときに、海外の子供達用の、安全で安価な良い教材はないでしょうかと、会長に聞いてみたんだ。波木会長は高山先生を紹介してくれた。
そのとき僕は高山先生から、落合クラブの勝本さんが考案したコスモ定規について教えてもらったんだよ」
「そうだったんですか」タケシが言った。
「勝本さんは普通の会社員なんだけど…、
健一君は、落合クラブだから、コスモ定規を考案した勝本さんを知っているよね」
健一が言う。「ええ。コスモ定規の使い方は、勝本さんに教えてもらいました」
「子供たちは、コスモ定規、使える?」
「コスモ定規は、クリスマスツリーの星の飾りを作るときなどに使っています。
それで子供たちは、クリスマス定規とか、星形定規と呼んでいます。
小さな子供でも使えないことはないけど…でも、子供たちは難しいと言って、コスモ定規を僕に渡すんです。
結局、星の飾りを作るのは、いつも僕なんです」
「そうだよね。円を書く操作って、子供たちには意外と難しいんだよね」
「コスモ定規は、星形正多角形や、それを組み合わせた世界の国旗を書くために考案されたので、コスモ(宇宙・世界)という名前が付けられている。
これは、普通の定規の表面に黄金直角三角形を書いて、さらに斜辺から直角部分へ垂線を伸ばし、各辺の接点に鉛筆孔を設けたものだ。
この資料を見てごらん」
速見は教室の本棚に並んでいた「教材作家講義ファイル」と書かれた資料の一つを開いた。
「これが黄金直角三角形に鉛筆孔を設けた"星形製図器"だ。
星形製図器が定規の透明な板の上に施されたものを"コスモ定規"と呼んでいる。
使い方は、コンパスと同じ要領だ。
二本の鉛筆を用意し、それぞれの芯を鉛筆孔に入れる。・・・
一方をコンパスの針として固定し、・・・
もう一方を筆記具として、円や、弧を書いていく。
そうやって定規を回転させながら、正五角形、正六角形、正八角形、正十角形、正十五角形などを書いていく。
三日月も描けるよ」
「僕の明日の発表、角の七等分は、"星形製図器"を発展させた"奇数等分器"によって可能となる。
実はね、"星形製図器"が、ちょっとした工夫で"奇数等分器"に様変わりするんだよ」
「でも、僕が本当に重要だと思うのは、この"星形製図器"を構成する黄金直角三角形のすばらしさだ。
黄金二等辺三角形や黄金長方形のような幾何学的な美しさはないかも知れないが、・・・
教材としての黄金直角三角形は、非常に利用価値が高いと思う」
「たとえば、黄金直角三角形を紙で切り取って使えば、・・・
小さな子供でも、星形正五角形(ペンタグラム)が簡単に書けてしまうんだよ」
「え、どういう方法ですか?」健一とタケシは口を揃えて言った。
高山も美奈子も、興味津々だ。
それでは、"コスモ定規"をヒントに、僕が現地の子供たちのために考案した、・・・
"黄金比の直角三角形による正五角形の書き方"の講義をはじめよう」
<第3話 終>