列車の窓からは、青空の下に雪山が見える。
健一と美奈子が山の麓の小さな駅に到着したのは、十二月の上旬、金曜日の午後。
美奈子は列車から降りると、思いっきり両手を広げて深呼吸をした。
「ここはとってもいいところね。緑がいっぱい」
健一はリュックを肩に掛け直しながら降りてくると、眩しそうに周囲を見渡した。
「ほんとだね。あ、迎えに来てる」
タケシが走って来た。
「やあ、平和台へようこそ」
「ひさしぶりねタケシ君」
「美奈子さんも来てくれたのですね」
「健一のおばあさんに頼まれたのよ」
「僕はもう高校二年生だよ。一人で来れたのに」
「体ばかり大きくなっても、おばあさんから見ると赤ん坊と同じなのよ、きっと」
改札を抜けると、美奈子は携帯電話を手にした。
「おばあさんに着いたって連絡するわね」
駅の出口にある白い屋台の前では、近くの牧場で採れた牛乳を買い求める客が数人並んでいる。
温かい牛乳を大きな柄杓でマグカップに注ぐ。白い湯気が立ち昇る。
「美奈子さんって、健一のお姉さんなのか?」
「違うよ。近所に住んでいる社会人。科学クラブや教材クラブで子供たちを指導してるんだ」
牛の鳴き声がする方を、健一は振り返った。
「あの牛は、いまから牧場へ運ばれるんだ」タケシが言った。
「ここは南天馬郡平和台村。
東京の健一の家の近くにはなくて、この平和台村にはあるもの。
星空と、牧場、そして、木造校舎」
「星がよく見えるんだよね」
「平和台からは、まだ満天の星空が見えま〜す」
「僕がここに来たいと思った理由の半分以上は、星がよく見えるということだよ」
「教材まつりなんか、見なくてもいい?」
「見てもいいけど」
「そこで健一に合わせたい人がいる」
「誰だい?」
「健一は、数学が得意だったよね」
「得意っていう程ではないけど。普通かなあ」
「三角形の内角の和は?」
「二直角」
「すごい。君は高い数学の能力を持っている」
「普通は知っているだろ?」
「僕は知らない。僕は普通ではないのか?」
「タケシ、何が言いたいんだ?」
「君は、僕の代わりに、ある数学の問題を解かなければならない」
「なぜ解かなきゃいけないんだ?」
「僕が解けないからさ」
「やってみてもいいけど、タケシが解けない問題を、僕に解けるとでもいうのか?」
「みんなの前で、やるといってくれ。それだけでいい。だって、もともと解答不可能な問題なんだ」
「解答不可能な問題って?」
「立方体倍積問題、通称デロスの問題」
「何だ?それ」
「この平和台にはマリゴンという怪物が住んでいる」
「怪物?」
「他の人間に言わせると、マリッペとか、真理子さま、とか言われて結構人気がある。でも、僕は苦手だ。
そのマリゴンから、今度の教材まつりで、この問題を担当するように言われた。実は押し付けられた。この問題を引き受けようという教材作家は、誰もいなかったからだ」
「誰も引き受けなかった問題なのか」
「僕はマリゴンに言った。友達に数学の得意なやつがいる」
「ちょっと待て、それが僕か?僕はそのために、ここに呼ばれたのか?」
「解けるまで、何日いてもいいんだぞ」
「僕は帰る」
「心配するな、滞在中の衣食住は全部うちで賄ってやる」
健一は足早に平和台駅の玄関口から入って行く。しかし「健一どうしたの?」という美奈子の声に押し戻されるように、また駅から出て来た。
「おばあさんに電話しといたわ。心配ありませんからって。
坂本君、健一のことよろしくね。私は駅前の旅館に泊まるから。・・・荷物置いてくるから、待ってて」
「了解です。あ、お荷物は、私が持ちます」
二人について行きながら、健一は腹立たしげに言った。
「まったく調子のいいやつだなあ。・・・軽く請け合って、都合の悪いことは、全部他の人間に押し付けるのか?」
「まあまあ、そう堅いことを言うな。せっかくの男前が台無しだぞ」
「いい気なもんだ!」
ランドセルを背負い、野球帽を被った少年が、真剣な目つきで上を見ている。その少年を見下ろす中学生の四郎は、右手でケン玉をもてあそびながら、ニヤニヤ笑っている。
「ケン玉を返して欲しいのか」
小学四年生の慶太は、四郎と睨み合ったまま動かない。
慶太の後ろには、妹のトモミとその友達の女の子が、四郎から身を隠すように寄り添って立っている。
「俺との勝負に勝ったら返してやる。こっちへ来い」
四郎は体を後方へ向けると、ニヤつく顔を斜め後ろの慶太に向けたまま、ゆっくりと歩みを進めた。
慶太は後ろを振り返り、「危ないから、あっちへ行け」と妹たちへ言った。
四郎の姿が見えなくなる。その後を追って、ゆっくりと慶太の姿が消える。
そして少し離れながら、二人の女の子が手をつなぎ合って、怯えるようについて行った。
「会長さん、ただいま」
木造校舎の窓ガラスを拭く手を止め、波木が横を向いた。
「エッちゃん、おかえり。サトちゃんも一緒か」
「今日は、四時ごろ、お母さん迎えに来る」
「そうか。怪我しないように遊ぶんだぞ」
「サトちゃん、行こう」
波木の足元近くの箱に入っていたドッジボールを手に取り、二人の女の子は走っていった。
波木は学童クラブと教材クラブの責任者として、三年前まで平和台小学校として使われていた木造校舎の一部を、専用に借りて運営している。
丘の上の広い敷地に立つこの校舎は、現在公民館や図書館として村民の憩いの場ともなっており、波木はその館長も兼ねている。、平和台村はその管理費の大半を、クラブからの家賃収入により賄っている。
ただ近々、この土地は売却されて工場の建設が始まることになっており、クラブの立ち退きと木造校舎の取り壊しが予定されている。
男の子が二人あわただしくやって来た。
「俺が先だろ?約束したじゃあないか」後ろの子がゲーム機を取り上げようと手を伸ばす。
前の子は両手に抱えたゲーム機に夢中だ。「もうちょっと待てよ」と言ってなかなかやめようとしない。
「こら!お前たち」二人は波木の声に、驚いて顔を上げた。
「エッちゃんたちは、校庭でドッジボールをやっているぞ。ユウジもタイスケも、女の子たちにドッジボールで負けてばかりじゃあないか。さあ、早く。走って行け」
「僕たち、野蛮人のする遊びって好きじゃあないんです」
「馬鹿を言うな!」
「逃げろ!」二人はきゃあきゃあと笑いながら逃げて行った。
「あ〜あ」高校三年生のシゲルが、背伸びをしながらやって来た。
「小学校の終わりのチャイムとともに、かけがえのない静寂の時も終わる」
「シゲル、帰るのか」
「来月はいよいよ大学入試本番だから。今朝は三時間集中できました」
「そりゃあよかった。明日は・・・」
「会長さん」シゲルの後から、リョウスケとトシオもやって来た。
リョウスケが口を挟んだ。「明日は、教材まつりがあるから、自習はできない、でしょ?」
「うん」
「でも、僕はシャカルタの係だから、明日も来ます」とシゲルが言った。
「何だって。真理子に頼まれたのか」
トシオが身を乗り出した。「頼まれなくったって、真理子さんのためなら、喜んで来ますよ」
横からリョウスケが小声でたしなめた。「お前に聞いているんじゃあないだろ?」
「自分から頼んだんです」シゲルが答えた。
「大事な時なんだからな。無理はしなくていいんだぞ」
「世界史は受験科目だから。シャカルタはいい気分転換にもなるしちょうどいいんです」
「お父さん」真理子がやって来た。
真理子の後ろに、速見が続く。
「速見さんを連れてきたわ」
「ご無沙汰しております」
「やあ、元気そうで何よりだ。日本へは、いつ?」
「昨日戻りました。すぐにでも伺いたかったのですが、大学へ現地の報告をする必要があったものですから」
「それはご苦労様。長旅で疲れただろう。…真理子、母さんには連絡したのか」
「もちろん。食事の用意ができているはずよ。それじゃあ、家に行ってるわね」
「うん」波木は速見を向いて言う。「まずは、ゆっくり休んでください」
「ありがとうございます。それでは、失礼します」
真理子は速見と並んで歩いきながら言った。「私の兄が結婚前に使っていた部屋が空いているの。そこを使って」
二人は帰っていった。
「春だなあ」リョウスケは空を見上げた。
「いまは冬だ」シゲルは無愛想に言った。
「オレ、かなりショック」トシオは肩を落とした。
その肩をリョウスケが抱いて言った。
「そうだよな、お前、ずっと前から、マリッペのこと好きだったよなあ」
「そうだったのか!」シゲルが驚いたような声を出した。
「よせよ」トシオはリョウスケから放れた。
リョウスケは続けて言った。
「トシオのやつさあ、小学三年生の頃、中学校から自転車で帰るマリッペをさあ、丘の上からじっと見ていたんだぜ。赤い夕日に照らされてさあ」
トシオが振り返る。「でたらめ言うな!」
「でたらめなもんか!」リョウスケは怒り出した。
「お前はそのせいで、飛んで来たセンターフライに気がつかなかった。ボールが目の前でバウンドするまで、お前は動かなかったんだからな!」
「何だって!」シゲルはあぜんとする。
「逆転サヨナラだ。あの試合は勝てる試合だった。よそ見しやがって。お前には緊張感ってものがないんだからな!」
「言わせておけば・・・!」
「お前たちの春はどうなんだ」波木が言った。「来月は受験本番だ。サクラサク。絶対だな。そうだろ?トシオ」
「そうだ。ありがと、会長さん」
「しっかりな。だから明日は来なくていいぞ」
「そんな〜」三人はすがるように声を揃えて言う。
「手伝ってくれるのはありがたいが・・・」波木は三人の表情を見回して言った。「自分で時間を調整して、なるべく早めに切り上げるんだぞ」
「わかりました」シゲルが言う。
「それじゃあ、さよなら、会長さん」リョウスケが言う。
「さよなら」トシオが言う。
「またな。気をつけて帰るんだぞ」
窓拭きを続けようとする波木の前を、中学生の四郎が右手を押さえ、あわただしく通り過ぎようとする。
「おい、どうした四郎。その手は」
四郎は波木を無視して、独り言を言って通り過ぎる。
「あいつ、汚い手を使いやがって」
その後を、トモミと女の子が恐る恐る通り過ぎる。
「会長さん、こんにちは」
「おい。何かあったのか?二人とも・・・」
二人は逃げるように駆けて行く。
野球帽を目深に被った少年が波木の前を通り過ぎようとする。
「慶太、どうした、その左目は」
「転んだんだよ」
「うそつけ。またやったな?小学生のくせに、中学生とまともにケンカできると思っているのか」
「あいつ許せねえんだよ!」
「こっちへ来い」
波木は首のタオルを水道の水で濡らすと、慶太の左目の横の傷口に当てた。
「いてー!」
「じっとしてろ」
「また四郎か」
「あいつ、中学生のくせに、トモミたちが遊んでいたケン玉を取り上げたんだ」
「それで慶太が相手になったというわけか」
「ケン玉を放さないから、手に噛み付いてやったんだ」
「あめ玉だ。持って行け」
「そんなものいらねえ」
「おまえじゃあない。妹のトモミちゃんにだ」
「ありがとう。トモミはあめ玉大好きなんだ」
慶太はあめ玉を受け取ると、胸のポケットに入れた。
「会長さん!」三人の男の子が、あわてて走って来た。
「ヒロシがダンプカーによじ登った」
「高すぎて降りれないんだよ」
「車の近くで遊ぶなと、あれほど言っといたのに」波木はあめ玉の入った籠を置きながら言った。
「ヒロシはどこだ!」
「こっち!」三人の子供たちが走り去り、波木と慶太も、その後を追った。
五人の男たちがゆっくりと話しながら歩いて来た。
「その工場移転の動機ですがね、汚染物質除去装置をつけるには莫大な金がかかる、規制のゆるやかな田舎に引っ越そうということらしい」
「全くけしからん話ですよ。町なかでは禁止でも、平和台村なら公害をまき散らしてもいいということですかね」
「自然環境を守るには金がかかる。その会社の社長が言っていたよ。株主は利益優先。汚染物質除去装置をつけるなんてとんでもない。社長である自分はクビになるってさ」
「うちの会社の株主なら逆の判断だろうな。利益はまず社会が受け、次にその見返りとして会社が受けるもの。社会と共同歩調を取れないような会社は、長期的な投資先としては不適格だ。装置をつけない方が社長はクビになるだろう」
「むこうの株主を責めたって始まらんさ」
「校長先生、われわれはやつらの言いなりになって、黙って出て行くしかないんでしょうか」
「何も黙っていることはないさ。言うべき事はいわなきゃ。ただ、教材クラブとしてそれをやるわけにはいかない」
「平和台村が準教育機関として認定した機関が、工場建設反対運動の拠点になっているのであれば、それが認定取消の理由になるということですよね」
「そうです。特に平和台教材クラブは、平日は学童保育機関を兼ねている。親が安心して子供を預けられる機関でなければならない」
「うちの子も預ってもらっていますが、条件は十分満たしていると思いますよ」
「社会運動の拠点というのも言い掛かりだ。川魚の講義をやっただけなのに」
「あの川魚なら、子供の頃よく捕ったものだ。いまじゃあ絶滅の危機にあるとは知らなかった」
「工場が建設されれば、魚はまず助からん」
「そう、その講義を教材クラブで行なう事を、会長は許可したのだ。それが工場建設反対運動を準教育機関が行なったという非難につながっている」
「彼らが工場建設に反対する組織に所属していることを、私は知らなかった。受付をしたのは事務局の私です。川魚を教材として、平和台の自然を再発見しようというのは良い内容だと思い、波木会長に伝え、発表許可をもらったのです。彼らは普通のサラリーマンで、川魚の研究家です。でも、そういう人はいっぱいいると思います。会長もそれで許可したのです。組織に所属していたことが、そんなに問題なのでしょうか」
「僕もそう思う。だから言い掛かりなんだ。難癖をつけて、ここを追い出そうとしているんだ」
「君達が言ってくれたような内容を、波木会長自身から村役場に説明してもらう必要がある。村長も困っているのだよ。あんな訴えが提起されるものだから」
「どこかの政治家が動いているっていう噂もありますよ。政治的圧力があって、村では規制を強められないというんです」
(第1話 終)